カテゴリー「社会問題」の4件の記事

2018年9月13日 (木)

災害先進列島  その1

  東京五輪開催時期の再考を

 今年の夏は日本のニュースから目を離せなかった。6月19日に大阪北部地震が起きた。大都市の直下型地震だというので注目した。そして台風。西向きに進んだ台風もあり、驚いた。予報の段階で西向きの進路が描かれていたので、予報通りになるかにも興味を持った。地震や噴火の予知は未だ不可能だが、気象の予報精度はたいしたものだと感心した。迷走台風あり双子台風あり。線状降水帯による豪雨、洪水。そして猛暑。全く何でもありの夏だった。

 猛暑はもはや、毎年の恒例になってはいるが、今年は各地で最高気温の記録を更新した。更にこの猛暑のおかげで、2020年の東京オリンピックのマラソン開始時間を早めることになった。しかもそれではまだ足らず、サマータイム導入も提案された。

 何とも姑息な解決策である。死者も出るほどの日本の夏に大量の客を迎えること自体、「おもてなし」の精神から大きく外れるのではないだろうか。前回の1964年東京五輪は10月に開催され、秋晴れの空に自衛隊機が五輪のマークを美しく描いた。何故その清々しい10月ではなく、蒸し暑い真夏にスポーツの祭典を催すのだろうか?

 テレビを見ている時に、「10月だと野球が優勝のかかる段階だったり、アメリカン・フットボールなどの有力スポーツがシーズン中だったりするので、放映権を高く設定出来ない。そういう方面からの圧力がかかり、真夏から移すことは出来ない」というコメンテーターの意見を聞いた。なるほどと思いはするものの、オリンピック出場選手や観客を熱中症に晒す危険性とアメリカのスポーツ視聴率、どちらが大切なのかという気もする。

 サマータイムというアメリカの、問題のある制度を導入しようという案が出たこと自体も不愉快だった。アメリカに長いこと住んでいるが、年2回の変更時の煩わしさ、本当の時間はいま何時?と頭の中で換算する面倒臭さ、に未だに馴染めないでいる。

 その後の報道で、サマータイムを既に実施しているヨーロッパでは、逆に廃止の動きがあると知った。84パーセントの住民が反対だったそうだ。とすると、アメリカにそういう動きはないのだろうか? もしもないとすれば何故か?  この国はヤード・ポンド法、温度の華氏など、不便なのに変えようとはしない。国民性として保守的なのかも知れない。銃規制がなかなか進まないのも、それが理由の一つだと私は考えている。蛍光灯やLEDが使われ、家電などの種類が増えた現在、サマータイム制によって節電出来る割合は低下しているのではないかと思う。それでもアメリカが制度廃止に踏み切るのは、最後の最後になることだろう。

 台風21号が大阪を直撃した時には、都市部を襲う風害の凄まじさに驚嘆した。車がひっくり返り、吹き飛ばされる。建物から剥がされた屋根や建材の破片が飛散する。まるで竜巻並みの風速だ。関西国際空港の被害の映像も凄かった。台風の強さ、進路は予め分かっていたのに、それでもタンカーが給油しなければならない緊急性が果たしてあったのだろうか?

 被害の他に、外人旅行客の姿も目を引いた。外部との交通を遮断されて、空港内に長時間閉じ込められた彼らの困惑の姿が印象的だった。もしも2年後のオリンピック時にも同様な想定外の出来事が起こった場合、困惑する外人客の数は莫大なものになる。

 今年の夏の災害は、天からの警告であるような気がしてならない。今からでも東京オリンピック開催時期を遅らせられないか、可能性を探るべきだと思う。

2016年9月27日 (火)

選挙制度の根本的改革を その3

  何故18歳に選挙権を与えたのか?

 私は若い頃から、人が考えないようなことを考えるようにしてきた。「反票」という選挙制度も、そうしたアイデアの一つである。友人に語ったりもするのだが、反応は全くない。そうした体験の後、自分が無名である限りは、発表の方法すらないと諦めるようになっていった。

 ところが1982年以降、サンフランシスコの邦字紙に、不定期のコラムを書けるようになった。作家の石川好氏が、市井の隠れたアイデアを探す「10ドル運動」というのを始めたことがある。私はその運動を自分のコラムで扱った。丁度良い機会だと思い、自分の積年のアイデアを、その記事に忍び込ませた(日米時事1992年2月22日号)。しかし運の悪いことに、肝心な部分に誤植があり、分かり難い文章になった。そしてその時も、反応は全くになかった。

 その1年半後、徳間書店の月刊誌「サンサーラ」(1993年9月号)に岩国哲人氏の記事を発見した。小見出しに「衆議院選挙に一人五票制とマイナス票制を」とあるのが目を引いた。文中に、「仮に同じ選挙区の県民の8割が辞めてもらいたいと思っているとしても、2割が支持すれば当選してしまう」「その問題を解消するには、マイナス票を投じる権利をも有権者に与えることだ」「マイナス票が集中した候補者は、いくら2割の支持者の団結があっても当選できない」「国会議員は部分の意志ではなく、総意を反映するという点から言えば、このマイナス票を投じるという制度を導入しないと政治腐敗はなくならない」などの言葉があり、興味をそそられた。

 第1回目の冒頭に書いたように、私がこの選挙制度の問題を書いてみたくなったのは、「18歳が社会を変える? 選挙の経済学」という番組を見たからである。その番組を見て私は、いったい誰がどういう目的でこの制度を導入しようとしたのだろう?と疑問に思った。18・9歳の若者たちが、自分たちにも選挙権を与えよ!と要求したわけではない。安保闘争や全学連の時代に、彼らが選挙権を要求したとしたらどうなっていただろうか?とも思う。反抗的な若者の要求を、受け入れただろうとは思えない。そのことから逆に考えると、欲しいと望んでいたわけでもない若者に選挙権を与えるのは、彼らが従順だからだ、ということなのかも知れない。勘ぐり過ぎとも言えるが、今年の参議院選挙を照準にした上での話題作り、という可能性もなくはない。

 もしかすると、18・9歳の若者が選挙権を持ったとしても、選挙全体の傾向に何の影響も与えないとは、発案者自身、百も承知だったのではないだろうか? むしろ、既存の政治家にとって無害だからこそ、さほどの反対も受けずに法制化されたのだ。「反票」の場合は正反対であり、毒があり過ぎる。「自分の首に鈴を付けるネコ(政治家)」が果たしてどれだけいるだろうか? 今はただ、「反票」のアイデアがいつの日か実現したらいいな、という願望が、ネズミ(有権者)の間で広まることを祈るばかりである。最近は、マイナス票について話題にするネットも増えてきた。

 マスコミが18歳選挙権のような問題を扱う時、必ず用いる手法がある。「世界の先進国でこの制度を採用していないのは、日本とこれこれの小国だけだ」とか、「スエーデンの若者の投票率は80%を越える」とか、というのである。スエーデンのような高福祉国家を、国の借金が今でも際限なく膨れ上がる日本の範とすべきではない、と私は考えている。しかし日本人を納得させるには、論理ではなく、こうしたイメージ手法の方がはるかに効果があるみたいである。明治以降の欧米崇拝の流れで、北欧の国で行なわれていることならば全て間違いない、という思い込みがあるからかも知れない。

2016年8月28日 (日)

選挙制度の根本的改革を その2

 「反票」(マイナス票)の導入を

 選挙における1票は、細胞レベルにおける個々人の意思表示である。ところが現行制度のもとでは、Yesの意思表示しか出来ない。どんなに落としたい候補者がいても、彼が固定票を持っている限り、落とすことは不可能である。小選挙区制や大統領選においては、前回も書いたように、相手候補に投票するという消極的手段がないではない。しかしこれは、心理的には結構難しい。それよりは、多くの有権者は棄権する方が楽だと思うことだろう。

 私が若い頃に思い付いたのは、通常の一票の他に、マイナスの作用をする「反票」を全ての有権者に与える、というアイデアである。つまり、有権者が投票所に出かけると、2種類の投票用紙を渡される。そして個々の候補者の総合得票数は、通常の得票数から「反票」分だけ引かれる、というわけである。この制度が取り入れられると、例えば知名度だけが高いタレント候補者などは、同時に「反票」も多く入り、得票数が相殺されてしまう。したがって、有名人というだけでは当選し難くなる。
 
 私は、アイデアを思い付いてすぐ、朝日新聞の投書欄に投稿したが、掲載されることはなかった。数年後から、タレント候補が数多く当選するという傾向が始まったが、もはや投書し直す気にはなれなかった。

 その後、不祥事を起こした国会議員がマスコミや世論に追求されながらも、次の総選挙で再選され、「みそぎを済ませた」とうそぶく例が多発した。冒頭に述べたように、自分の選挙区で一定の固定票を確保してさえいれば、どんなに反対が多かろうとも落ちることはない。したがって、本当の意味の「みそぎ」になってはいないのに、選挙が口実を与えてしまったようで悔しい。しかしもし「反票」の制度があり、その傲慢な国会議員と同じ選挙区でありさえすれば、一矢報いることも可能になる。

 中でも「反票」の最大の利点は、選びたい候補者がいないからと棄権するつもりでいた有権者を、投票所に行く気にさせる点である。公約は、口当たりの良いことばかりであることも多い。騙されまいと身構える者には、一票を投じるべき相手がなかなか見つけられない。しかしそのような者は逆に、選ぶべきではない相手を見極めるのに優れている。疑い深い分、慎重に調べて排除すべき相手を探すことだろう。そのような者たちも投票所に足に運ぶ結果として、得票率は確実に上がると期待できる。また、「反票」だけのつもりで出かけた投票所で、ついでに、普通の1票をも投じる気になったりしたら、それはそれでまた良いことである。

 とは言え、「反票」のような制度はあくまでもチェック機能の一つであるに過ぎない。悪いことはしない代わりに良いこともしない者(もっとも、そういう者こそが、一般人の代表として議員に選ばれるべきなのかも知れない)よりも、少しぐらいアクは強いが、将来をきちんと見通せる者、あるいは決断の早い者の方が、トップの指導者としては相応しかったりする。そこで将来的には、「反票」は同時に「半票」にすべきだ、と考えたりもした。つまり、「反票」2票で1票分というわけである。

 しかしそれはあくまでも将来的にということで、制度の導入時には、「正票」「反票」1票づつで始めてもらいたい。もしかすると、総投票数0とかマイナス何票なんていう候補者が出て来たりもするだろうが、制度導入時には、それぐらいのインパクトが必要である。

 このような選挙制度のアイデアって、世界の他の国にもあるのだろうか?アイデアが他国の模倣ではなく、他国に先駆けてのものであるとするならば、これ以上に誇らしいことはない。

2016年7月25日 (月)

選挙制度の根本的改革を その1

(このブログは科学的な問題だけにし、社会的な問題はいつか別の場で、と考えていた。しかし私の書くペースからすると、ブログの新設など望むべくもない。)

  投票したくない候補者たち

 5月26日(日本では5月18日)に放送されたオイコノミア「18歳が社会を変える? 選挙の経済学」を見て、選挙制度改革について考えさせられた。しかしそこで扱われた選挙制度改革は、枝葉の改革に過ぎない。もっと根本的な改革が必要なのに、と思った。積年の私の考えを書き残しておきたい。

 あれは高校生の頃だったと記憶する。新聞記事で選挙の記事を読み、制度そのものに問題があると考えた。中学生の時に社会科の先生が好きで、先生が顧問をしている社会研究部に入った。一人で国会議事堂に行き、傍聴したこともある。しかしその私が、選挙権を持ったら投票に行く気になるかと言うと、そんなことはなかった。というよりは、深く考えれば考える程、かえって行く気にならなくなる。

 「選挙権」という言葉があるけれども、行く気になってこその権利だ。「行け行け」とうるさく言われてやっと腰を上げるようなものが、権利であるはずはない。それに、権利であるとすれば、それを使う使わないは個人の裁量であり、納税の義務などとは違う。また、せっかくに時間を割いて投票した候補者が、後にどうしようもない人物だと知れたとすれば、一票分の責任がある。責任とまでは言わないにしても、投票所へ足を運んだ労力は何の為だったか、という気にはなることだろう。

 最近の例で言えば、舛添要一前都知事に票を投じた人は今、どんな気持になっているだろうか? テレビでよく見かけるというだけで、人は親しみを感じる。彼の言葉も説得力に溢れていた。彼のマイナス面を知らない一般人が、彼を選んだとしても不思議はない。しかし今回のような、個人的支出を政治資金でまかなう事件が明らかになってみると、彼が都知事になろうとした意図そのものが疑わしくなる。東京都を良くしよう、そのための公僕になろうというよりは、公職を自分の利得のために使おう、という基本姿勢がもともとあった人なのかも知れない。本人は、ポイントとかおまけを稼いだ程度のつもりだったのだろう。違法でないため「せこい」と言われるらしいが、私は、「ずる賢い人」なのだと思う。

 米国大統領選におけるトランプ氏の出現は、舛添氏の辞任どころでは済まされない重要な問題である。最近のあまりにも極端な差別的言動により、彼への支持率が一時下がったとは言うものの、また持ち直し、7月の時点では、クリントン氏と拮抗しているとも言われる。今後、彼がより慎重になるならば、あるいはそう装うならば、支持率は更に上昇し、11月の選挙直前の情勢次第では、彼が大統領になる可能性は充分にある。

 もしも彼が大統領になり、言葉通りの政治を行なったとするならば、世界の混乱ぶりは、英国のEU離脱どころの比ではない。世界最大の核保有軍事大国が、「感情の政治」によって支配される危うさは、想像もつかない。

 対するクリントン氏も、メール問題が禍いして、支持率が今一つ伸び悩んでいる。つまりは、どちらも積極的に選びたくなる候補者ではないのだ。恐らくは、トランプ氏あるいはクリントン氏を当選させるぐらいならば、という消極的な理由で、相手候補に票を投じる者も多く出ることであろう。これが、長い月日と巨額の選挙資金を注ぎ込んだ末の、うんざりする結果である。民主主義の根幹である選挙制度そのものが、いま問われている。