カテゴリー「清張氏の約束 」の59件の記事

2012年12月16日 (日)

清張氏の、守られた約束 その59

   いえ、違います。あなただーれ? 

 林さんの家では、スタンダード・ジャズの好きなご主人と気が合い、何曲かカラオケで交互に歌い合ったりした。 

 その時に悦子さんが、

「清張先生と紹介もなしにお会いして、その夜に食事に誘われた人は、他に聞いたことありません。ましてや、こうしてその後も長いことお付き合いが続いていて、お土産までいただいた方って、おそらく皆無でしょうね」

 と語ったのに対し、ご主人も

「私もたった一回、我々の結婚式の時にお会いしただけですよ」

 と言葉を引き継いだ。 

 清張氏との付き合いが長く続いたのは、林悦子さんのおかげである。一番最初に喫茶店で清張氏とお会いした後、彼女にも礼状を書いた。それに対し素早い返事が戻ってきた。手紙を書くのは苦にならないそうだ。それから文通が始まり、偶然にも、私が通っていた高校のかなり下の後輩であると知れたりした。彼女からの手紙の中に、清張氏の話が書いてあったことはめったにない。また、私の書いたことが氏に伝えられたことも殆んどない、と推測する。しかし、清張氏との雑談の折などに、私のことがひょこっと出なかったものでもないだろう。彼女による陰の力は大きかったはず、と今でも信じている。 

 清張氏の小説にかなり徹底的に手入れして、その原稿を送って以来なんら音沙汰もなく、疑心暗鬼になっていた私に、ラーメンの贈物は二重三重の意味で嬉しかった。清張氏は怒っていない。それを知っただけでも充分、とすら言えた。 

 翌日ラーメンの包みを、林さんが箱崎にタクシーで届けてくれた。当時は、箱崎でもチェックインの手続きが出来た。何を心配していたのだろう、と思えるほどあっけなく、ワープロの箱もラーメンの箱も、カウンターの裏に消えた。 

 まだ時間もあるからと、三人でお茶を飲んだ。昨夜も出た話だが、清張氏が如何に心の温かい人であるか、私のようなケースが如何にあり得ないことであるのか、の話題になった。その時の私の目には、泪があふれそうになっているのを感じた。

 成田空港で全ての手続きが終わってほっとした後、公衆電話から清張氏に電話をした。以前と同様、本人が電話口に出た。

「はい」

 という声の感じだけで、分からないではない。

「松本清張先生のお宅でしょうか?」

 一応確認のために念を入れた。あるいはそれがいけなかったのだろうか、数秒の間の後、

「いえ、違います」

 という返事。ここまで聞けば、本人だということは疑いようもない。しかし本人が否定している以上、どうしたものだろうか、と電話口で戸惑っていると、

「あなた、だーれ?」 

「あのー、篠塚です。アメリカの……」 

「あー。……君いつまでいるの?」 

「はい、今これから帰るところです。成田から電話しています」 

「ああ」 

「先生、ラーメン本当にありがとうございました」 

「うん。体に気をつけて、これからも頑張りなさい」 

「先生もヨーロッパ旅行、どうかお元気で」

 電話を切ってから、後ろに立っているワイフに気がついた。あー、しまった。一言ぐらい、佳代子にも挨拶をさせるべきだった。いくら旅行前で忙しいとはいえ、怒られるほどではなかっただろう。彼女に清張氏と話させる千載一遇のチャンスを逃した。 

 それにしても、このような形で電話口で断られることは当然ながらにあり得た。1982年に初めて電話した時が、このような状況でなかったことの幸運を、改めて思った。

 

2012年12月10日 (月)

清張氏の、守られた約束 その58

   一個千円のインスタントラーメン 

 その翌年の5月、佳代子と共に一週間、日本に行った。 

 ガーデナーというのは、なかなか一週間以上の休みを取れない。アメリカでは、あまり重要でない祭日は、月曜日に移したりするようになった。サラリーマンが連休を享受できるようにである。ところがそうなると、毎週一回芝生を刈りに行く、という契約をしているガーデナーには都合が悪い。私はその解決策として、5月第四月曜日のメモリアル・デイと、9月第一月曜日のレイバー・デイにかかる一週間を、ヴェケイションとした。メキシカンだけで仕事口を回させると、この前のように、移民官に捕まったりした場合などに対応できない。夫婦揃って日本に行くのはそうしたわけで、一週間と限られるようになった。また、その短い期間を有効に使うために、都心への交通の便のいい、駅前近くのビジネスホテルを使うようになった。 

 その時の訪日では、林悦子さんに3度も会っている。彼女は結婚していたが、解散した「霧プロ」の後身の、「霧企画」で前以上に忙しくしていた。帰国寸前に、我々は彼女の家に招待され、ご馳走になった。

「松本がヨーロッパに行く支度で忙しくて、お会いすることが出来ません。それで、私が代わりにご馳走してほしい、と頼まれました。レストランで、とも考えたのですが、アメリカでは自宅に招待する方が喜ばれる、とも主人が言いますもので……」

 自宅に呼ばれたのには、もう一つの理由があった。清張氏からの贈り物だ、というインスタントラーメンが、かなりの嵩のダンボールに入っていた。「明星新中華三昧 特別仕様」一個1000円のものが4種類、20個も入っていた。林さんの話では、注文したデパートだけでは足りなかったため、他の支店などから取り寄せて個数を揃えたらしい。 

 せっかくのご好意であるのに、私の最初の反応は違っていた。困ったな、と思った。既にワープロを買ってあったが、本体はさほど大きくもないのに、梱包されたものは予想外に大きかったのだ。その上に、もう一つの大きなダンボール。飛行機会社が受け付けてくれるだろうか、などと心配した。それで、半分貰ってくれないだろうか、と林夫妻に懇願した。 

 当然ながら断られた。

「確かに、かさばるもので大変でしょうが、アメリカで美味しいラーメンを食べられないだろうから、是非これを食べさせたい、と考えた松本の暖かい気持も酌んであげて下さい。私達は、千円もするインスタント・ラーメン、とても買う気にはなりませんが、試してみたければいつでも買えます」

 清張氏は当時、その特別仕様のラーメンを気に入り、年中食べていたらしい。考えてみれば、氏のような有名人が、普通のラーメン屋にひょこっと一人で入るのは、結構勇気の要ることであるかも知れない。 

 当時の林さんからの手紙には、

[篠塚さんへのあのラーメンも、先生自ら、三越の得意先係へ電話をし、一日で集められるだけの数を注文したといういきさつがあります。本当なら、もっと沢山集めたかったのですが、本店各支店を通じて集めたのがあの量でした。何しろ、帰国の日が決まっていましたので、日数がないだけに、大変なことでした。]

 とあった。新聞記事が同封されてあり、それには次のように書いてある。

[明星の千円ラーメン「新中華三昧(ざんまい)」は八七年十月から首都圏、大阪、名古屋、博多、札幌の主要百貨店に限定して順次、発売に踏み切った。そのころからメーカーの間で高級化路線をめざす動きが出ていたが、「インスタントで最高級のものを一度作ってみたかった。カップラーメンに押され気味の市場に、話題を提供するのもねらいだった」と同社の担当者。店頭に並ぶとすぐに売り切れた。だが、手づくりのため、生産は一日千個が限度。発売後一年ほどは予約販売方式をとり、商品が手元に届くのが一ヶ月先という状況が、しばらく続いた。]

 経緯を知らなかったからとは言え、その時とっさに、清張氏の心を酌むよりは、飛行機の手荷物制限の方を考えた自分が恥ずかしい。 

 普通インスタント・ラーメンの袋の表には、入ってもいないチャーシューの薄切りが、何枚も載せてある写真が出ている。しかしこの千円ラーメンの場合は、表の写真と同じものができるようになっている。豚肉の、とろけるような厚い切り身が入っていたのを記憶している。出来上がりは、高級中華料理店の麺と変わらない。なるほど高いわけだ。 

 これを書きながらちょっと気になったもので、明星食品に問い合わせてみた。すると、

[製造は1988年に終了し、1989年頃まで販売されていました。
  下記5種類がありました。 

・海鮮魚翅湯麺(フカヒレと蟹玉入り湯麺)

・枸杞銀耳湯麺(アワビ・エビ入り漢方湯麺)

・炭焼叉焼肉麺(炭火焼チャーシュー入りしょうゆ拉麺)

・紅焼排骨健力麺(スペアリブの焼豚入りしょうゆ拉麺)  

・香葱牛肉辣醤麺(牛肉とナマコ入り辛味噌拉麺)

 という回答をいただいた。 

 なんと! 私が清張氏から贈られた1989年6月の時点では、既に製造は中止され、デパートの在庫も殆んど底をついた状態、であったと推測される。ギリギリだったのだ。運のいいことであったと、今にして知る。 

「牛肉とナマコ入り辛味噌拉麺」というのは記憶にない。それ以外の4種類だったのだろう。私は、たかがインスタント・ラーメンに、そこまでこだわる職人の技術力に感動した。さすがに、鉄板をも切り裂く日本刀を生み出した国のことだけはある、と思った。その話を、当時行きつけの床屋の主人に話したら、お国自慢と取ったらしく、嫌な顔をされた。日本はクジラがどうの、などと逆襲して来た。

 

2012年12月 4日 (火)

清張氏の、守られた約束 その57

   清張氏の文章に手入れした 

 4月の手紙の後、清張氏にもう一通立て続けに手紙を出している。

[松本清張先生 

 大作家である先生の文章を変えさせてほしい、などという向こう見ずは他に居ず、さぞかし驚かれたことと思います。 

 あの手紙を書いた後、さっそくに始めてみました。そして、ずいぶん様々なことを発見しました。私は長いこと、既に出来上がった小説を書き変え、その制約の中で自分の主張を言い尽くすなど、不可能に近いと考えていました。又、あの「南半球の倒三角」を書いていただいたのは、先生の好意からであるのがはっきりと分かっているだけに、もう、扱っていただいただけで充分、それ以上何を望むことがあるか、と思っていました。ところが、この正月の御手紙により、今も尚本にまとめる予定であると知り、本は半永久的に残るもの故、ある程度の誤りを正させていただきたい、と考え直すようになりました。 

 実際に始めてみると、予想に反して、自分の言いたいことを十二分に入れ込むことが出来ます。しかも、現在の観測事実と合わない点を省いたりしたため、実に簡潔にまとまりました。俳句や和歌などと同様、制約があるからこそ、かえってよいのかも知れません。今まで、要約した小論文を十回以上も書き直してきましたが、それらのどれにも増して、一般人に理解され易そうです。 

 すっかり気に入りました。たとえ先生からOKが出ず、この形で世に出ることは永遠にない場合にも、私の説の説明のために、何らかの形で個人的に使わせていただこうと考えています。 

 それにしても、構図のよさには驚嘆します。ただ肉付きを変えただけで、これほど気に入ったものが出来上がる、とは想像もつきませんでした。 

 先生とお会いしてから、私の説は大きく発展しました。「対流があれば、地球は丸くなければならない」という点を前面に出すようになったのも、「北半球に大陸が多い」という、先生からの御指摘の結果です。又、一般人が、私の説のどこに最もひっかかるかを知ったのも、あの小説が出たことによる直接間接の結果です。あれ以来一般の人たちも、私の説に耳を傾けてくれるようになりました。そういう人達からの質問のおかげで、「太陽系には40以上もの月があり……」などの工夫をこらせるようになった訳です。 

「頭がヘンな男の発想」云々の個所にはびっくりしました。狂人が自分のことを狂人とは分かっていない、といわれるのと同様、「もう一つの月が落ちた」という考えが、他人にそれほど奇異に受け取られるようなものとは、自分では気づいていませんでした。それを知ったおかげで、今では自説の説明の仕方を、ずいぶんと変えています。 

 御多忙の先生にお願いするのは、何事によらず心苦しいのですが、どうか同封のコピイを、御一読下さるようお願い致します。お気に召されない場合にも、その結果をお知らせいただけましたら幸いです。早目に方向転換することが出来ます。 

 1988年5月30日]

 その後清張氏からの手紙はない。 

 私は、あまりにもぶしつけな手紙を出し続けたため、すっかり怒らせてしまったに違いない、と思った。それに、あの小説への手の入れ方も、半端なものではなかった。清張氏がせっかく調べた学説や私の説の説明を、遠慮なく削って直した。あれがいけなかったのだろうか? 

 

2012年11月28日 (水)

清張氏の、守られた約束 その56

  イオこそヤスーン落下直前の姿 

 地球大紀行の第一巻は、隕石孔の話から始まっている。月や水星の隕石孔から始まって、地球にある数々の、隕石によると思われる地形を訪ね歩いている。最近の天文学によれば、隕石、微惑星あるいは宇宙塵の衝突、そしてそれらの集積こそが、地球や惑星を形造ったのだ、と考えられているからだ。 

 私もその考え方に全く賛成である。太陽系の天体には、衝突の歴史が数多くの痕跡として刻まれている。ただたった一つ、科学者の説明に納得できない点がある。この本にも、NASAにおける隕石の衝突実験の話が出てくるが、それらは全て固体である、という暗黙の前提に基づいている。 

 衝突する天体は全て固体でなければならない、という固定観念を捨てさえしたら、新しい世界が開ける。科学においては、あらゆる可能性を検証することが必要だと言う。例えば、大金を投じてUFOの研究すら行われている。それにもかかわらず衝突実験において、何故その同じ論理が適用されないのか? 

 私がヤスーンのアイデアを得た当時、我々人類の知る小さな天体はすべて個体であった。ところが1979年になり、惑星探査機ボイジャー号から送られてきた写真により、活火山だらけのイオという、木星の衛星の存在が知られるようになった。これこそは、私がアイデアを得て以来思い描いていた、ヤスーン落下直前の姿である。まるで、全体が溶岩の丸い塊、であるかのように思える。つまり液体の塊、なのである。 

 このイオが、激しい噴火を開始する以前の姿を想像してみると、薄い殻に覆われた、生卵状になっていたと思われる。 

 では、生卵を地面に叩きつけたらどのような形が出来るか? うどん粉の塊を空中分解させてから、地面に落下させたらどうか? 現在の大陸の地形と似たような形を、作り出せるかもしれない。私が提唱するのは、このような実験である。 

 人は固定観念に囚われ、そこから一歩外へ踏み出すことはなかなか出来ない。衝突する天体は固体である、というのもそうした固定観念の一つだが、地上にある隆起した地形は全て火山起源である、というのも固定観念であるかもしれない。 

 火山が最初からある、という環境に生まれ育った人類は、火山は、地中のマグマが噴出してできるものだ、と決め込んでしまう。しかし、宇宙塵や隕石などの集積の結果として、惑星や衛星が出来たのだ、と考えられるようになってくると、それらの地表にある山は、外部から落下、つまり衝突してできたものなのだと考えた方が、全体との整合性が高い。 

 私は、火星のオリンポス山その他の火山も外因性のものだと考えているが、もっと著しい例は、金星のパンケーキ型火山群である。金星には、パンケーキやお好み焼きを鉄板の上にたらしたような、丸い円盤状の地形がある。それらは粘性の高い溶岩が地中から噴出して出来たのだ、と考えられているが、今まで述べてきた理由により、それらは、ヤスーンのような溶岩状の塊の落下による、と考えるべきなのである。 

 地球において高い山のあるところは、アイソスタシーと呼ばれる平衡状態にある。ヒマラヤ山脈で山体の重力を計測していた時、まるで山が空洞で出来ているかのような数値が出てきたので驚いた、といわれる。それ以降、各地の山脈で調べられたが、どこでも似たような結果が得られた。その結果、丁度氷が水に浮いているように、より軽い岩石が山脈の下深くに根を張っているため、全体としては重力的に釣り合っているのだ、と考えられるようになった。 

 ところが金星における火山群は、アイソスタシー状態にはない。重力的に見た場合、もともとの球体の上に付け加えた状態になっているのだ。その事実は、金星においても、溶岩状の天体の落下によってそれらのパンケーキ状の山ができた、という私の考えを支持する。 

 火星においても、そのような重力測定が行なわれたとすれば、アイソスタシー状態になってはいない、と私は考えている。

 

2012年11月22日 (木)

清張氏の、守られた約束 その55

   現代のドンキホーテに徹する 

 三ヵ月後に再び手紙を出した。

[松本清張先生 

 お変わりございませんでしょうか? 

 前にも書きました通りのろまなもので、先生に頂いた「地球大紀行」全六巻、やっと読み終わりました。多作の先生は、読むのもまた非常に早い、と推察致します。あの程度の本に3ヶ月もかかった、と聞いては、私の超遅読ぶりに、あきれ返られるのではないかとおそれます。 

 地球物理関係については当然ながら、大筋において知っていることばかりなわけですが、それでも、話のもっていき方、細部における新事実などが実に興味深く、楽しく読み終わりました。叉、熱帯雨林を失くしたら、温帯が砂漠化するとか、先進国の工業汚染が、遠く離れた太平洋の楽園や極地をも汚しているとか、今や物事を、グローバルに見ていかなければならないのだ、というこのシリーズのメッセージそのものに対しては、私も大賛成です。この問題については、水飢饉に関連して、サンフランシスコの邦字紙に持っている私のコラムで、扱ってみたいと考えています。 

 地球と宇宙の問題に関しては、現在小論文の形でまとめ直しています。もう十回以上も、このような作業を繰り返してきましたが、今度こそはうまく書けそうです。昨年11月で、「ヤスーン」の説を思いついてから丁度20年になります。ここまできたら、現代におけるドン・キホーテに徹するつもりです。 

 誠に厚かましい、大胆なお願いがあります。お気に障りましても、風車に突撃するドン・キホーテにも似た、向こう見ずの言葉とお聞き流し下さい。 

 お手紙には、今も尚あの小説を本にする予定とかありましたが、そうだとすれば、

1)白川保雄の言葉の部分を、私に書きかえさせていただけないでしょうか。 

2)大陸移動の図だけでなく、もっと多くの図を入れていただけないでしょうか。 

3)白川保雄の説をY-Sではなく、「ヤスーン」にしていただきたいのですが……。最初に命名する時「ヤスー」にするか「ヤスーン」にするか、ずいぶん迷ったのですが、簡単なものほど憶えてもらい易いだろうと考え、あの本の段階では「ヤスー」を採りました。「篠塚」を「篠」にしたのと同じ理由です。しかしヤスーンには、YASUOMOONの合成語という意味もあったわけですから、最初からそれに固執すべきでした。 

「地球大紀行」本当にありがとうございました。おかげで、ずいぶん励みになっています。又、NHKのこのシリーズの出現で、日本人の、地球そのものに対する関心も、ずいぶん高まったと思います。今年アメリカで駄目ならば、来年もう一度日本に働きかけるかも知れません。先生からの「七転び八起き」の言葉を大事にして、頑張るつもりでいます。

 1988年4月15日]

 

2012年11月16日 (金)

清張氏の、守られた約束 その54

   ヤスーンへの御執念に敬服 

 料亭でご馳走になった年から、清張氏に歳暮を贈るようにした。たいした金額のものではない。ただ、無名無力で苦しんでいる私を助けるために、編集者達からの多くの反対にもかかわらず、小説化していただいたことに感謝の意を示したい、と考えたからである。海産物だったり、カリフォルニアの果物だったりした。後で、コーヒーがお好きだったと知り、それだったら簡単だったのにな、と思った。贈答品を扱う会社に注文するので、どういう品質のものが送られるか、自分達には分からない。メロンが甘くなかったと、日本の友人から率直な報告を知らされたりもした。 

 ある年、サンフランシスコ名物でもあるダンジネス・クラブ(毛のない毛ガニのようなカニ)を送った時、清張氏からお礼の手紙を貰った。

[明けましておめでとう。本年もよろしくお願いします。 

 去年は好物のものを御恵送いただき有難う。御礼状を出しそびれて申訳ありません。御許し下さい。 

 昨年暮の御手紙拝見、相変わらず「ヤスーン」への御執念、敬服のほかはありません。 

「文芸春秋」の「南半球の倒三角」は、もう一つ短篇が書けないために本が出来ず、お待たせしています。 

 NHKが六回にわたり「地球大紀行」と題した四六億年前の地球の誕生から氷河時代、ヒマラヤ山脈の造山運動、砂漠の拡大といったテーマで現地遺跡とイラストで構成しています。全巻を揃いでお送りしましたから御参考までにお読み願えたらと思います。 

 あなたの新発想による展開を期待しています。

 一九八八年一月八日

                                                              松本清張

 篠塚ヤスオ様]

 

 この手紙に対して、私は次の様な返事を書いている。

[松本清張先生

 お手紙本当にありがとうございます。妻と二人で飛び上がって大喜びしました。 

 あの「南半球の倒三角」が、私への好意であるのが分かるだけに、そして二度もご馳走になり、素晴しい色紙まで頂戴し、何とか感謝の気持ちを表わせないものか、と常々考えておりました。それで、せめて年に一度位は何かを送らせていただきたい、というだけのことでしたが、当地のカニが気に入っていただけて何よりです。歳暮の時期とあっては、全国のファンからの贈物で、むしろ処分に困る位ではないか、と推察致します。お礼状を頂けるだけで光栄です。地球大紀行全巻を送って頂けるなど……。何とお礼申し上げればよいのか、言葉に窮します。私はこの上ない果報者です。 

「執念に敬服」とありましたが、私の場合はのろまで、時間ばかりかかってしまうだけのことで、お褒めいただくと、気恥ずかしい思いが致します。ただ、故意に時間をかけている意味はあります。アイデアを得てから丁度20年が経ちました。もしも「風雪断碑」の主人公のように、ガリガリやったとすれば、あるいはもっと早目に形になったかも知れません。しかしそれだけ反発も強く、世間から変人、狂人扱いされる危険性も強まります。(もっとも今は、私自身もっと変人に徹すべきだと考え直しています。)それに、木村卓治や大陸移動説のウェーゲナーのような、失意の人生を送るぐらいならば、「どうせ生きているうちに認められることはあり得ない」と最初からあきらめ、気長にやった方がよい、と考えます。 

 ところで、あのウェーゲナーの人生は、推理小説の題材にならないものでしょうか? 50才の誕生日に犬ぞりに乗って、単身グリーンランドの氷の世界に探検を挑み、そのまま帰って来なかったといわれます。偶然にしては出来過ぎています。自殺と言えないまでも、失意による投げやりさがあった、とは言えるでしょう。今でこそ、学者の多くは、彼のことを偉人として崇め奉っていますが、その彼らが当時に生きていたとしたら、ウェーゲナーのことを、こき下ろす側にまわったのは間違いありません。学界に何度働きかけても駄目、3版4版と改訂版を出しても駄目。努めて明るく振舞いながら旅立ったであろう、その最後の探検行の彼の胸中が、私にもいくぶんは、分かるような気が致します。 

 私は何につけてものろまなので、御手紙に対する礼状を書きかけてもたもたしている間に、「地球大紀行」全六巻、昨日届きました。船便で、一ヶ月先だろうから、その時にもう一度礼状を、と高をくくっておりましたが、エアーメイルとは。重ね重ね驚いています。こんな高価なものを……。エビでタイならぬ、カニで本を釣ってしまったようで申し訳なく思います。ありがとうございました。また読み終わりましたら、手紙を書かせていただきます。

  1988年1月17日]

 

2012年11月10日 (土)

清張氏の、守られた約束 その53

   ヤスーンの大きさを計算して出す 

 この問題にきちんと答えられなかったことは、後々まで気になった。何年も経ってから、他の調べものをするために町の図書館に行った時、たまたま、大きな地図帳を開いてみる気になった。あの時の質問を思い出し、各大陸の面積を合計してみよう、と思った。 

 その段階になって、いちいちの大陸の大きさにこだわる必要がないことに気がついた。ヤスーンが落下して作ったのは、現在の地殻の部分である。とすれば、地殻の平均の厚さを仮定して計算するだけで、ヤスーンの大きさが簡単に出てくる。 

 よく言われる例えだが、地球はゆで卵のようである。黄身にあたる部分はコア、もしくは核と呼ばれ、鉄やニッケルでできていると考えられている。白身の部分はマントルと呼ばれ、一応固体ではあるが流体のようにも振舞い、対流もおこなわれていると、現在の学説からは考えられている。 

 卵の殻にあたる部分は地殻、と呼ばれ、ここだけは凸凹している。海底の地殻は平均的に約5キロ、大陸の部分はずっと厚く、平均すると35キロぐらいである。 

 というわけで、地殻の平均的な厚さは10キロ、あるいは20キロと仮定すればよい。球の体積は4/3πで求められるが、4/3πの部分は途中で消えるので、そう難しい計算ではない。地球の地殻を10キロと仮定すれば、ヤスーンの半径は1068キロ、20キロと仮定すれば1345キロということになり、現在の月の半径1740キロからすれば、丁度ころあいの大きさだったことになる。 

 その時の地理学の授業には後日談がある。 

 後で娘に聞いたところ、私の仮説について、簡単なテストもあったらしい。日本でなら、学習指導要領によって、年間に教える内容が大まかに決められているので、よもや私のような、外部の素人の仮説を、教室で紹介することなどあり得ないだろう。ましてや、その授業に基づいて、小テストまで行なったとすれば、父兄から苦情が出るに違いない。アメリカの授業はおおらかなものだ、と思った。それ以降全く声がかからないところをみると、先生自身がちょっと興味を持ち、聞いてみたかった、というだけのことかもしれない。 

 それにしても、先生が興味を持つように、うまく説得したものである。私のその娘は、幼い頃から現実主義者であった。広い原野を走っている最中に牛の群れを見つけると、「カウ、カウ」といって大騒ぎする。幼児のあどけなさだと微笑ましく思っていたが、後年、牛そのものに興味があったからではなく、ミルクを出すものとしての牛に興味があったからだと知り、唖然とした。 

 地理学の先生に私の仮説を語ったのも、そうすると成績が上がるかもしれない、と考えてのことらしい。ただし、実際の成績の方は、彼女の思惑通りにはいかなかったようである。

 

2012年11月 4日 (日)

清張氏の、守られた約束 その52

   アメリカの中学で仮説を説明 

 清張氏は、手紙でも口頭でも、本にするときには小説の中の間違いを直す、と何度も繰り返した。流行作家にとって、新聞や雑誌に書く小説は下書きに過ぎないのだと、清張氏と出会う以前、考えたこともなかった。単行本として出版されて、本当の意味で作品は完成される、ということなのだろう。確かに読む側からしても、新聞や雑誌の連載小説は、読み捨てにしていることが多い。前回と話が違う、などといちいち気にする読者もめったにいないのだろう。日本だけの慣習だろうか、面白いシステムである。 

 再び待ちの日々が始まった。しかしもう今回は、いらいらすることもなかった。期待がなかったからでもある。小説が出たことによる反響は全くなかった。それは、あの小説の中の誤りのせい、とも思えなかった。もっと根本的なものなのである。清張氏への礼状に書いたように、数多くの人たちに会った結果、日本に、あるいはこの時代に、私のような異説を受け入れる土壌はない、と私は悟った。 

 仮に、誤りが全て正された単行本が出版されたとして、それで新たな反響が生まれるだろうか? そんな訳はない、と私は思うようになった。世の中の仕組みを悟ったと言うべきか、諦観したと言うべきか、これもまた成長の一種なのであろう。 

 それだけではない。あの小説に手をつけることは不可能だ、と思い込んでもいた。 

 というわけで、アメリカに戻ってからの私は、次の段階へと進むことにした。次は、アメリカ社会に向けて働きかけることである。 

 そんな私に、渡りに船、の話が持ち込まれた。当時14歳だった下の娘からである。学制上は高校だが、年齢的に日本で言えば、まだ中学生でしかない。日本から戻ってまだ1年も経たないある日のこと、地理の授業に出て大陸の起源についての私の仮説を説明してほしい、という教師からの伝言を私に伝えた。 

 自説を英文で説明するのに自信はなかったが、断る理由もなかった。何日かかけて、やっと原稿を書き上げた。 

 25~30人程度でいっぱいの小さな教室だった。私は、原稿を先生に読んでもらうことにした。私の訛りのある英語では、通じない可能性の方が強かったからだ。清張氏に送ったのと同型の地球儀を持ち込み、まだ幼さの残る生徒たちにそれを示し、先生の朗読の進行に合わせて、あちこち違う個所を示した。 

 丁度先生の朗読の終わる頃、廊下の方が騒がしくなってきた。早めに終わったクラスの生徒達が出てきたようである。それにかまわず私のいた教室では、先生が質問を促し、生徒の何人かがそれに応えた。印象に残ったのは、

「ヤスーンの大きさはどのぐらいだったのですか?」

 というものだった。

「それについて計算したわけではありませんが、現在の月よりは小さかった、と想定しています」

 と答えた。

 

2012年10月29日 (月)

清張氏の、守られた約束 その51

   伊豆半島はなぜ北上できたか? 

 さて、その4つのプレートが相互にどのように動き合っているのかを、地下に至るまで立体的に考えていくと、プレート・テクトニクスなるものが如何に非現実的な仮定に基づいているのか、がよく分かる。例えば、牛の舌のように長く入り込んでいる北米プレート。これははるか彼方、大西洋中央海嶺によって押されているはずである。ところが北米プレートは、別の方向へ、ハワイ列島の方へ動いているはずなのである。厚紙を各プレートの形に切り、地球儀の上で説明してみてもらいたいものである。 

 もっと分からないのは、フィリピン海プレートである。伊豆半島は南の方からやってきて、現在も衝突中である、という。南のどこから? このプレートには、湧き出し口がないのだ。中央海嶺がなく、周囲は全て海溝である。仮に、太平洋プレートがマリアナ海溝あたりで沈み込み、その背後のあたりでまた湧き出したとする。でも、その対流が次に沈み込むのは、琉球海溝やフィリピン海溝の方角であり、日本列島であるはずはない。何故ここのプレートにおいてだけ、太平洋プレートの沈み込み帯に沿って北上できるのか? 伊豆小笠原列島が進む方向は、フィリピンや台湾、沖縄方面であって、日本ではないはずである。 

 いくら修正修正を施しても、大前提が根本的に間違えているかぎり、次から次へと論理的矛盾が増えるばかり、減ることはない。私はこれを、「断り書きの論理」と呼ぶ。その命名の由来は、「浮世床」という古典落語にある。以下に、「新版円生古典落語1」(集英社文庫)から引用する。 

 江戸の町の床屋に集まる男たちを描写した咄(はなし)である。床屋の一隅では、姉川の合戦における、本多平八郎と真柄十郎左衛門の一騎打ちについての講談本を、無筆の(読み書きのできない)客が辛うじて読んでいる。そしてそれを別の客がからかう。

[「……一尺八寸(約55センチ)の…大太刀ッてえが…おかしいなァ……だってお前さん、大太刀ッてんだから長えんだろう…? 一尺八寸…なんてなァ、あんまり長かァねえやな、(手真似をして見せ)これっぱかりしかねえじゃねえか」 

「だってお前、書いてある……」 

「書いてあるったって短ッけえじゃねえか」 

「何だお前は…うるさいな……ことわり書きがしてある……」 

「何だい、断り書きってえなァ」 

「理由がちゃんと書いてある…な? うーん、一尺…八寸は、これは横幅なり……と」 

「おう? 横幅かい、そりゃァ。おっそろしい…大きいねどうも。おほほほ……ずいぶん幅があるね」 

「あァ。もっとも…これは大幅なり、と……」 

「何だいおい、反物を買っているようだな……大幅かい? 一尺八寸の幅があった日にゃァ振りまわすと向うが見えなくなっちまわないかな」 

「向うが見えねえ? うん……断り書きがしてある」 

「なんだい、よくあね、断り書きが……」 

「あァ。もっとも振りまわした時にーは向うが見えなくなるといけないから……(節をつけて)ところどころに窓をあけ……」 

「なんだ、窓があいてんのかい」 

「あァ。……この窓から覗いては敵を斬りィ、窓から首を出して『本多さん、ちょいと寄ってらっしゃいよ』……」 

「何を言ってやンだ、およし、およしよ、馬鹿馬鹿しい……そんなもの、聞いてられるかい……」]

 

2012年10月23日 (火)

清張氏の、守られた約束 その50

  沈み込むプレートが地震を起こす? 

 このようにして、個人的にもかなりの関わりを持った上田氏だが、氏の主張に対しては、おいそれと受け入れるわけにはいかない。 

 プレート・テクトニクス説においては、大西洋の中央海嶺で湧き出した対流が、その両側の大陸を押して移動させるばかりで沈み込まない。ところが太平洋にあっては、よく絵に描かれる通りの形で海溝から沈みこむ。この差は何によるのか? 上田氏はここで、海溝から沈みこむプレートが後続の部分を引っ張るのだ、と考えた。その説だと、海溝のある海洋底におけるプレートの移動速度の速さをうまく説明する、とも言う。イメージとしては、テーブルクロスが、端の方からずり落ちる形である。 

 これに対して私は、地殻を構成している岩石を、一繋がりのテーブルクロスやプレートと捉えること自体に無理がある、と考えている。岩石は、海底に破砕帯という巨大な亀裂があることでも分かる通り、あるいは、地震で簡単に断層ができることでも分かる通り、引っ張りの力に対して脆いはずである。重力によって沈み込むプレートの先端が、後続の部分を全体的に引っ張る、などということが起こるはずはない。 

 同様な議論は、“コンニャクモデルとも呼ばれる、海溝型地震についても言える。日本海溝で沈み込むプレートは、日本列島の東端を地中へと引き摺り込む。ある程度以上の応力が溜まると、限界に達し、陸側がピンッと反発して隆起する。その時に巨大地震が起こる、というわけだ。 

 地殻は、櫛の歯のような弾性体ではない。確かに地殻は反発する。氷河期が終わって氷の重荷から開放された地殻は隆起する。しかしそれは、スカンジナビア半島などに見られるように、年に1センチという程度であり、地震を引き起こすような急激なものではない。 

 そしてさきほども述べたように、地殻には亀裂が入る。日本列島のほうに断層がいくらもあるのに、どうして反発して隆起できるのか? ひびの入った櫛の歯をはじいて、それが反発すると期待するに等しい。 

 ついでのことに、日本では4つのプレートがひしめき合っているから地震が多い、というよく聞く話を考えてみよう。これは話の順序が逆なのだ。本当は、地震が多いからプレートの境界がそこに決められたのだ。これは、何も私が言い出したことではない。金森博雄氏が、プレート内地震の議論の時に、私にそう言ったことがある。

 

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