カテゴリー「金森博雄教授」の37件の記事

2015年12月 1日 (火)

金森博雄教授と東京で8時間 その9

  共役断層はアメリカにも

 郷村・山田断層は図の上だとT字型したありきたりの共役断層に過ぎなかったが、坪井忠二氏の図に出会って、謎が深まった。余震域の円グラフ3/4状の偏りなどを考慮する時、地下の地震がどのような形で起こっているのか?イメージすることも出来ない。

 そんなことを調べたり考えたりしているうちに思い出した。たしか私のニュースレターで、アメリカの共役断層を扱ったことがある。読み返してみると、地震直後の新聞記事などで、 必ずしも共役断層という言葉が使われているわけではない。しかも、郷村断層の場合とは起こり方がかなり違う。しかしネットを調べると、やはりあれも共役断層とみなしてよさそうである。

 1992年6月28日の朝5時ごろ、M7・3の地震が南カリフォルニアの砂漠 の町で起こった。ランダース地震と名付けられたこの地震は、サンフランシスコ大地震以降3番目の大きさだったにもかかわらず、人口が少なく被害も少なかっ た。そのため、一般人から注目されることも記憶されることもなかった。しかし地震学的には、非常に珍しい謎の多い地震であった。

 以前書いた(遠隔誘発地震の謎 その3)ように、金森博雄教授から頂いたメールには、誘発地震についての論文が添付されていた。それによれば、誘発地震の重要性は、ランダース地震以降地 震学者の間で注目されるようになったようである。ランダース地震の誘発地震としての側面は、「遠隔誘発地震の謎」の話をもう一度する時に問題とする。

 ランダース地震は誘発地震であるだけではなく、共役地震でもあるのだ。約3時間後に、西方約35キロほど離れた山中で、M6・5の地震が起こった。最初のうちこれはランダースの余震とも考えられたのだが、その日のうちに別の地震であると決定された。私が見た翌日の新聞記事の全てが、別の地震とみなし ている。

 ランダース地震の揺れは2~3分も続き、断層も数ヶ所別々になっていたというから、東北地方太平洋沖地震と同様な連動型だった可能性もある。それら断層群の 南への延長線上で、2ヶ月前の4月23日に、M6・1のジョシュアツリー地震が起きていた。ビッグベアの震源地は、それらの断層線とはまるで違う位置にある。地上に現われた断層は見つからなかったものの、余震域からして地下の断層は、ランダースの断層線に対してT字型であった。つまり、共役断層で あった。

 私はランダース地震の約2ヶ月後の休暇に、現地を見に行った。当時は娘がホテルで働いていたので、パー ムスプリングスにある、系列の最高級ホテルに安く泊まれた。お陰で、ビッグベア、ランダース、ジョシュアツリーなどの震源地ゆかりの町の他、サンアンドレアス断層のカリフォルニア州南端の町エルセントロ、その近くのソルトン湖などを見て回ることができた。地図の上では分からないが、それぞれの町は雰囲気が まるで違っていた。

 同じ年1992年7月28日付のニューヨーク・タイムズ紙に、面白い記事が載っていた。ランダースとビッグベアとサンアンドレアスとの3つの断層が作る三角形をバミューダ・トライアングルと呼ぶとあった。バミューダ・トライアングルと言えば、飛行機や船が突然消えてしまうという大西洋の三角海域のことである。

 同じ三角形の謎の地域とはいえ、断層帯にバミューダの名前を付けるとは出来過ぎだ、と思ったら、三角形の頂点の一つの近くにバミューダ・デューンズ(砂丘)という町があるからだそうだ。

 三角形の共役断層となるとより複雑である分、郷村・山田断層のT字型断層よりも更に解釈が難しくなる。地震発生を説明する通常の断層図にさえも私が指摘したような幾つかの疑問がある。T字型や△型断層ともなると、図で説明するのが可能であるとは思えない。バミューダ海域以上の本当の謎がそこにある。

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2015年11月17日 (火)

金森博雄教授と東京で8時間 その8

  郷村断層は謎だらけ

 郷村断層の図を探して手持ちの本を繰っていた時、「新・地震の話」(坪井忠二著、岩波新書、1967年)の中に興味深い図を見つけた。断層だけではなく、余震の震央も出ている図を他で見たことはない。その図に関連した部分を以下に引用する。Img_0001

[弾性反撥説によると、エネルギーは断層の両側に同じように蓄えられていなければならない。そして本震はまず断層のところから発するというのであるから、あとからみれば、本震は余震域のほぼ中央におこってくれないと具合が悪い。ところが実際はどうもそうではないようである。地震のときに、地上に明瞭に断層のあらわれて、しかも余震の分布がわかっているものはまだほかにもある。たとえば1927年の丹後地震もそうであるが、この場合にも、余震はその断層の両側にわたって一様におこっているのではない。図29に示すように、断層の西側におこった余震が断然多い。断層の東側には、ほとんどおこっていないといってもいいくらいである。弾性反撥説では、エネルギーは断層の両側にほぼ均等に蓄えられると考えているのだから、(本震は余震面積のまんなかではなく、そのはじの方から発するという) 松沢武雄さんの指摘されたこの事実は、反撥説にとって都合のよいことではない。]

 ここに出てくる「松沢武雄さんの指摘」については、以前 (地震は雷のようなもの その4) にも竹内均氏の文章の中で引用した。以下にその時の文章の一部を再掲する。

[チリ地震の本震は余震域の北の端にある。 ……チリ地震の際には、震源から出発した割れ目が南へ向けて走り結局750キロメートルもの長さの割れ目ができたことが知られている。]

 「本震の震央が余震域の端に存在する」という、同じ松沢武雄氏の同じ指摘のはずだが、坪井氏の図を仔細に見ると、竹内氏の場合と別の形で使われているみたいである。竹内氏の場合、本震は断層の端で起こり、断層に沿って割れ目が走る。それに対して坪井氏の場合は、確かに余震域の端ではあっても、断層線上ということで言えば、端ではなく、中央に本震の震央がある。

 郷村・山田断層の余震域は円グラフ3/4のようで特異である。余震のない1/4の地域の地下はどういう状態になっているのだろうか? 地下に構造的な何かがあり、地震の発生を妨げているのだろうか?

 だいたい、郷村・山田断層のようなT字型共役断層の、どこにどのような形でエネルギーが溜まるのだろうか? もともと断層にエネルギー(歪あるいは応力)が溜まるということ自体、かなり疑わしい。ひびの入った器は割れ易い。断層という傷があれば、小さな力が加わるだけでずれ始めるはずだ。断層というだけでもエネルギーが溜まり難いはずだが、T字型ともなると、その溜まり方は更に複雑化する。

 このようにして見ていくと、郷村・山田断層は謎だらけである。地下がどのようになっているのか、地震がどのように起こるのか、全くイメージできない。いったい日本では、どれだけの研究者がこの断層系の不思議さに着目しているだろうか? 共役断層という名前が付いたことで、また前記のような石柱実験で一応の説明がついたことで安心しきってしまい、それ以上に調べる気になっていないのかも知れない。郷村・山田断層の謎を、もう一度根底から見直してほしいと願う。

2015年11月 3日 (火)

金森博雄教授と東京で8時間 その7

(後述のように、これ以降の「その7」~「その9」に対しては、金森教授からコメントをいただいた。後々の参考のために、コメントをいただいた箇所 { } 内に、原文を挿入します)

  金森教授が訪れた断層

 既に書いたように(その4)、金森博雄教授は昨年2月、1927年丹後地震時の郷村断層を訪れた。そのことを私が知ったのは昨年9月、先生からのメールによる。郷村断層について早速に調べてみて、興味をそそられた。郷村断層の先には、山田断層というもう一つの断層がT字型に交差しているのだ。

 もしも断層がずれ動くことによって地震が発生するのだとすれば、T字型交差部においてそれなりの影響が現れないのはおかしい。以前書いたこと(地殻底のマグマ層 その15)でもあるが、地震学の本に出ている図では、2つのブロックのずれ動く断層によって地震の発生が説明されている。もしもその図の通りだとすれば、ブロックのずれ動いた跡には大きな穴が出来てしまう。2つの断層がT字型に交差しているとすれば尚のこと、大きな穴が開いたり{It is true that if rigid blocks move, there will be a hole. The general assumption is that during faulting many micro cracks occur (some are aftershocks or coseismic) and some plastic (ductile) deformation occurs. As a result, the crustal block deforms without making a big hole. However, usually we do not know the details. You should realize that the strain associated with earthquake is small, about 1/100,000.}、曲がったりしそうなものである。

 このようにして、向きの違う2つの断層が同時に出来る場合を共役断層と言う。それについて、「活断層とは何か」(池田安隆、島崎邦彦、山崎晴雄共著、東京大学出版会、1996年)には次のようにある。Img

[断層の活動では、1方向の応力がかかっているとき、図10のように走向や変位の向きの異なる2つの断層運動が同時に発生することがある。これを共役断層という。地表地震断層に共役断層が出現する例は多く、日本では1896年の陸羽地震、1927年の北丹後地震、1930年の北伊豆地震などで認められている。]

 石柱の両端を挟み込む形で力を加えれば、確かにグシャーっと、図のようなX字型のひび割れが出来そうである。しかしそれはあくまでも、地面が石柱で出来ているならば、の話である。一般的な地面は、石柱のような剛体ではない。むしろ、褶曲山脈があることでも分かるように、柔軟性に富むようである。地質学の本などには、くねくねとした蛇のような褶曲の図が出ていたりする。地面の柔軟性は想像以上のものである。しかし、それ程に柔軟なものならば、地面を横から水平に力を加えたとしても断層はできず、ぐにゃーっと折れ曲がってしまうはずである。ところが、現実には無数の断層がある。一体どういうことなのだろうか? もしかすると、地面は急激な力に対してはひび割れ、ゆっくりとした力に対しては可塑的に変形する、などということがあるかも知れない。{Yes. This is the standard understanding.}

 上掲の本の別の箇所に次のような言葉がある。

[日本の内陸は、伊豆半島の周辺を除いて、ほぼ東西に圧縮されている。この圧縮の力によってプレート内地震が起こる。そして地震で断層がずれて、さらに東西に縮む。]

 とすれば、日本列島は東西に圧縮されて、そこいら中で褶曲しそうなものである。しかし逆に、断層の向きがあらゆる方向を向いていることからすれば、「東西に圧縮」ということの方を疑うべきなのかも知れない。一方向からの{I am not sure whether they are really randomly oriented. I think that there is some trend but you should look at the fault map.}恒常的に押す力だけで、日本列島全域に広がっている活断層の向きを説明出来るようには思えない。

 郷村・山田断層のようなT字型の共役断層は、同じ地震で同時に、2方向の断層が動き出すわけである。東西一方向の圧縮だけで説明するのは更に難しそうである。上述の石柱実験は、共役断層を説明するためのデモンストレーションに過ぎない。共役断層が何故出来るのか? 本当の意味での実験を工夫してもらいたいものである。

2015年10月20日 (火)

金森博雄教授と東京で8時間 その6

  中央海嶺から柱状節理が出る

 前回書いたように、柱状節理のでき方についての私の考え方は、ネットでいろいろに調べているうちに、かなりはっきりとした形にまとまった。垂直な柱状節理の大部分は、溶岩湖あるいは火道に沿って火山内部で作られたと見る。火山内部でという点こそ違え、でき方そのものについては定説と矛盾しない。また、水で溶いたスターチ(でんぷん、片栗粉)を乾燥させて作る柱状節理実験とも合う。

 問題は溶岩流の場合である。「溶岩の動きの化石」という私の考え方は、玄武洞上部の長い水平層をうまく説明するとはいうものの、「冷却の程度が進むにつれ亀裂が入る」という定説と合わない。初めのうちこそ二者択一だと思っていたが、そのどちらもあり得るのではないか、と考えを変えた。そのきっかけとなったのは、水平な貫入岩の存在である。

 越前松島という柱状節理の景勝地が福井にある。東尋坊のすぐ近くなので、もしも以前から知っていたなら、東尋坊を訪れた2010年にそこも寄っていたはずである。東尋坊に比べると圧倒的に知名度が低い。恐らくは、規模が小さいのだろう。越前松島で検索しても、同じ敷地内にある水族館の方が多く出る。しかし、デビルズ・ポストパイルを見て以来柱状節理に興味のある私からすれば、そこは柱状節理の博物館である。次の訪日の際には是非訪れてみたい。

 何回もの検索の結果「越前松島」を探し当てた後、「越前松島玄武岩質安山岩の産状」(吉澤康暢著 2012年)という素晴らしい論文を発見した。その中に36枚もの写真が載っている。柱状節理と言っても様々な形態のものがあるので驚いた。通常の垂直型の他に斜めのものあり、ドーム型のものあり、階段状のものあり、である。

 ドーム型の成因は、「溶岩が動く方向に亀裂する」という私の考え方でも説明できる。しかし階段状のものを、私の考え方で説明することはできない。それは岩体が一旦冷え固まった後、縦にできた亀裂に溶岩が貫入したことを意味している。垂直の柱状節理に対し、割った薪を積み上げたかのような短い水平の柱状節理が直角に接合している。それは溶岩の動きとは全くに関係がない。そうなると、正統的な解釈の方が正しいのかも知れない。前記の論文から以下に引用する。

[柱状節理は、流出した溶岩が接触する基盤や空気により冷却固化する際、体積が収縮するために形成される。柱状摂理の柱の伸びの方向は、重力の方向(上下)とは無関係で、マグマが冷えるときの等温度面に対して垂直にできると考えられている。つまり、マグマが水平に流れた場合、柱状節理の伸びの方向は地面にほぼ垂直になると考えられる。柱状節理が階段のように横に伸びている場合は岩脈状の溶岩が冷却したものと考えられ、柱状節理を挟む2つの縦の等温度面を考えることができる。]

 岩脈状の溶岩が冷却して作る階段のような水平柱状節理の場合、貫入する溶岩の動きは関係ない。しかしもしも割れ目が広い場合、水平に薪を積み上げたような階段はどうなってしまうだろう?という疑問が生じる。狭い場合には柱状節理を挟む両側の岩石からの冷却だけを考慮すればよいが、広い場合には空気からの冷却も考慮しなければならなくなる。すると、両側の岩石から冷却されて水平に延びていた柱が、途中から突然垂直に変わるのでなくてはならない。

 ところが玄武洞上部層の水平柱状節理は結構長く、それら全体が貫入岩で両側の岩石により冷却されたとするのは無理があるように思う。また、全ての柱状節理が溶岩流内で出来たとするには、木の株型の場合を説明できないなど、既に述べたような多くの難点があり、受け入れにくい。そのような考察から私は、溶岩流内で柱状節理が出来る場合、条件の違いにより、垂直にもなり、水平にもなるのだ、と考えるようになった。

 溶岩流内で垂直の柱状節理が出来る条件とは、溶岩流にほとんど動きがなく、層も厚い場合である。溶岩流に動きのある場合に柱状節理は水平になり、玄武洞上部の水平層のような場合を説明する。

 私の最大の関心事はもちろん海洋底である。中央海嶺から湧き出すのが玄武岩であるとすれば、そこに柱状節理が生み出され、世界の海洋底にプレートとして移動していくはずである。そうして出来る柱状節理が垂直型だとすれば、海洋底は蜂の巣模様をしているし、私の考え方からすれば、水平型でなければならない。さて、どちらが正しいだろうか?

2015年10月 6日 (火)

金森博雄教授と東京で8時間 その5

  柱状節理は何故できるのか?

 JR玄武洞駅で降り、すぐ近くの船着き場から渡し舟に乗る。若い女船頭さ んの運転で対岸に着き、そこのみやげ物屋で料金を払った。その時に帰りの船の予約も取った。みやげ物屋を出たところでガイドと目が合い、ガイド料が300 円と安いこともあり頼むことにした。説明は非常に親切丁寧でありがたいのだが、私が知りたいのは地質関連の情報だけであり、それ以外は不要であった。それ なのに彼の話は延々と続き、何度「ありがとうございます」と言っても終わりにしてくれない。おかげで、ミュージアムをゆっくり見る時間もなくなり、冊子を買うのに 内容を検討する時間もなくなった。
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 玄武洞ミュージアムが出しているその冊子に玄武洞の成因が書いてはあるものの、大きな字でわずかに2ページ。しかも、熱対流で説明している。前回も書いたように、玄武洞の柱は小さな節(ふし)で分離している。さらにそうした節の断面は、輪切りにしたレモンのような不思議な紋様を持っている。玄武洞のそうした固有の特徴を説明するために、熱対流を持ち出したい動機は分からないではないが、岩石の冷却と熱対流、具体的にどう結びつくのかよく分からない。

 では、そもそも「柱状節理」はどのように説明されているのか? ネットで調べてみると、だいたい同じような説明が書いてある。それが定説なのだろう。

 流 れる溶岩流の表面から中心部へと冷却の程度が進むにつれ亀裂が入り、結果として縦の柱が出来るということらしい。しかし溶岩流の先端は、新幹線車両のような流線型をしている。その流線型の曲線を反映した柱のでき方は、表面が大きく内部が小さい、扇子を垂直に立てた位置から半分開く場合にできる放射状である。これでは、デビルズ・タワーに見られるような木の株型の場合を説明できない。また、玄武洞 や高千穂のように、垂直の柱状節理の上部に水平の層が覆っている場合を説明するのは更に困難であろう。

 溶岩流説に対しては、それ以外にも疑問がある。溶岩流の多くは厚みが足りず、流紋を残した表面は、溶岩原が示すようにがさがさなままだろう。厚みがあっても傾斜のある場合には未凝固の内部の溶岩が流れ去り、空洞を作ってしまう。富士山をはじめ、火山の山麓にはそのような溶岩洞窟が多い。

 水平の柱状節理をネットで更に検索し続けているうちに、素晴らしい実例を見つけた。韓国の慶尚北道慶州市陽南面邑川里という所に、扇を置いたような形の柱状節理があるそうだ。別の例えで言えば、菊の花の中心部が穴になっている形である。この穴の部分に噴火口があったのだろう。恐らくは、溶岩がまだ流動的であるうちに陥没したのだと思われる。中心部を音波探査すれば、砂や泥の堆積物の下に蜂 の巣状の柱状節理上面が発見されるかもしれない。

 このような水平柱状節理の実例を幾つかネットで見つけた後、自分自身の仮説に対する自信が増した。柱状節理は溶岩の動きの方向を反映した、いわば、「溶岩の動きの化石」なのである。そして、次のようなイメージが確立してきた。

 火山噴火が始まると、マグマ溜まりから火道を通って、噴火口から溶岩があふれる。やがて噴火がおさまり、噴火口近くに溶岩湖が形成される。その溶岩湖が冷却固化して、垂直の柱状節理を形成する。この冷却固化の過程は、定説が説くのと同じである。空気と接する表面から深部へと、固化温度境界線が下がっていくのを追いかけるように、柱状節理の結晶化が進んでいく。そうして出来上がった柱状節理を覆う山体は比較的軟らかい岩石の堆積であることが多く、雨や波で浸食され易い。そうした侵食の結果として、火道の柱状節理だけが残る。

2015年9月22日 (火)

金森博雄教授と東京で8時間 その4

  玄武洞の水平柱状節理

 今から30年以上前のこと、金森博雄教授が学会やコンベンションで世界各地に行くという話をされた時、当時はまだ若く、世界を広く見てみたいと思っていた私は、「いいですね、世界各地を旅行出来て」と言った。それに対して「大したことないですよ。飛行場からホテルと会場に行って、また帰って来るだけです」という答えが返ってきた。

 その時以来、先生が旅行されるのはやむを得ない場合に限られるのだろうというイメージで捉えていたが、地震に関係する所には案外気軽に出掛けられるようである。例えば、20数年周期で地震が起きてきたから予知が出来るのではないかということで有名になったカリフォルニア中部のパークフィールド、規模の上ではカリフォルニア地震史上トップクラスだった砂漠の町ランダース。

 とはいえ、昨年9月に頂いたメールで、「今年の2月、京大の友人に連れられて1927年丹後地震の郷村断層に行ってきました。その時に、城崎温泉近くの玄武洞にも行き、水平な柱状節理があるのを見ました。もちろんそれは、そこだけの構造なのかも知れません。でもデビルズ・ポストパイルにも水平な構造があったように記憶しています」というメールを頂いた時には意外だった。玄武洞は断層を見たついでに、ということで分からないではないが、デビルズ・ポストパイルの方は地震とは関係のない、かなり辺鄙な所にある地質構造である。

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 玄武洞には、私もその2ケ月後に行く予定であった。先生が行かれた前記の場所に私も行っていたり、行く予定にしているというのは嬉しいことである。将来、先生が東日本大震災半年ほど前に訪れた綾里白浜へも行くつもりである。かって38メートルもの津波を受けたことのある地形や海を見て、地震や津波の原因を私なりに考えてみたい。

 玄武洞の柱状節理は、私がまさに見たいと思う形の水平層を持っていた。垂直な柱の層の上に水平の層が重なっている。この2重の違う方向の層の形成を、地質学においてはどのように説明できるだろうか? 玄武洞の2重層に合わせた具体的な説明を見つけてはいないが、水平や斜めの長い柱の形成に対しては、「玄武岩は動く方向に柱を作る」という私の考え方の方が、通常の地質学的な説明よりうまく解釈できると思う。

 ネットで検索してみても、玄武洞のような水平柱状節理はなかなか見つからない。金森先生のご指摘通り、デビルズ・ポストパイルには、水平柱状節理が確かにある。しかしそれら以外には、ほんの数例が例外のように出てくるだけである。ところが後述のように、見つかった数例は非常に貴重で示唆に富む。中には、私の考え方を揺るがすほどのものさえあった。

 玄武洞にはそこだけの固有な特徴もある。ふつう玄武岩の柱は、削りたての材木のようにストレートな面を持っているのだが、玄武洞の柱の表面はくねくねとした波型をしている。節(ふし)のくびれのところで分離して、ドロップを積み重ねたように見える柱も多い。似たような柱状節理が他にないわけではないが、おそらく、世界的に見ても珍しい形なのではないだろうか。

 それに対して私は、伸ばしたまま古くなった輪ゴムがぶつぶつになる、のと似たような現象ではないかと考えた。ただし玄武洞の場合には張力ではなく、上の溶岩層の重みが何らかの作用を及ぼしたのだと思う。

2015年9月 3日 (木)

金森博雄教授と東京で8時間 その3

  日本人は中間層が素晴らしい

 東大近くの喫茶店で1時間ほど過ごした後、昼食に出ることにした。店を出る時に店員に訊いてみた。「この辺りに寿司屋ありますか?」。

 それに対しての答えは「ここは学生の町ですから、ラーメン屋やカレー屋はいくらでもありますが、寿司屋は・・・ありましたかねぇ」と首をかしげた。

 赤門が正面に見える辺りにまで店の看板を見ながら歩き、大通りに戻って交差点を渡ったり戻ったりした。その挙句に、近くの交番に入り、お巡りさんに尋ねてみた。交番の中の実直そうなお巡りさんが「ちょっと待ってください」と奥に引っ込んだ。しばらくして戻ってきて「同僚にも電話で訊いてみましたが、この辺りでは思い当たらないそうです」。礼を言って今度はメトロ駅への小路を調べる。寿司屋でなくても適当なレストランはないものだろうかと探したが、夜の居酒屋ぐらいしかない。

 結局、築地に行った方が早いということになり、何処へ行くかは、タクシーの運転手さんに任せた。晴海通りを通り、築地四丁目の角で降ろしてもらい、交差点を渡る。寿司職人がやっと一人立っているだけの、狭い間口の立ち食い専門店もあり、さすがに寿司のメッカだと思った。角を曲がると、呼び込みがいるのに客のいない店もあり、その反対に、長い行列の出来ている店もあった。

 「あんな行列に並んでまで食べたいとは思いませんね」という先生の言葉もあり、その店もやめた。私も気質的には同じである。「クール・ジャパン」というNHKの番組で、日本人は行列に並びたがるとあった。行列のできる店の方が良い店である確率も高いので、私は、ある程度の行列ならば我慢する。出来たら、行列ができる店の空いている時間を狙う。

 先ほどの行列の店はどういう店だったのかを知りたくて、後日銀座に出たついでに立ち寄り、店頭で訊くと並ぶ必要がないというので入ることにした。しかも、カウンターの良い席に案内された。板前さんの感じも良く美味しかった。後にテレビで、「すしざんまい」というその店は、オーナーが毎年最高値で初競りのマグロを競り落とすことで有名な、チェーン店の一つであると知った。

 金森先生と私は先ほどの交差点を反対方向に戻り、運転手さんに勧められた「築地すし好」という店を目指した。店内は昼のピークを過ぎていたこともあり、一旦閉めるのではないかと思うほどに空いていた。掘りコタツ式の座席に通され、落ち着けた。先生のご希望にぴったりの店であった。お任せのセット料理も、突き出しや刺身が付き、寿司も美味く、大満足である。何よりもゆったり話せるのが、その時の我々には最高であった。

 私は先生との議論を、最初にお会いした時から録音させて頂いている。もう37~8年間ということになるのだが、2回目からはご承諾も得ぬまま、当然のことのようにレコーダーを回している。引用する必要性が生じた場合に正確を期したいからでもあるが、帰りの車中聞き返すのが楽しみでもあった。しかし、レストランなどでの寛いだ雰囲気の時には遠慮している。オフレコの方が話し易いかも知れないと思うからだ。ところがそういう時の方が、書き残しておきたいと思うような良い言葉が多い。この先思い切って、録音の許可を頂こうかとも思う。とは言え当然ながら、次のような素晴らしい言葉は、それでも録音されることはない。本郷の交番での後、歩行中だったからである。

 「日本人って、素晴らしい民族だと思います。特に普通の、中間層の人たちがいいですね。親切だし、震災後の行動にも見られるように礼儀正しいし・・・私も、生活の本拠地を日本に移そうかな、と思ったりもしますよ」

2015年8月11日 (火)

金森博雄教授と東京で8時間 その2

  膝の痛みが非正規医療で治った

 金森博雄教授とは11月3日の11時半、本郷の機山ホテルでお会いすることになった。早目に着いた私がロビーで観光案内のパンフレットなどを選んでいると、先生がドアを開け、カウンターに向かった。杖は持っているものの、意外と軽い足取りである。車の付いた小さなスーツケースをカウンターに預け、近くの喫茶店に入った。

 膝が痛くなり、病院でレントゲンを撮ってもらったが、異常は発見されなかったという。様子を見てみましょうということで帰されたものの痛みは治まらず、知人の勧めで別の治療院へ行った。そこでは痛い膝を診ることはせず、足と肩とに電極を付けて電流を流したり、何かしら意味不明の治療を1~2時間も続けた。しかし治療が終わった時には、痛みも引き、歩けるようになったそうだ。

 後になり、テレビの「きょうの健康」で、腰部脊柱管狭窄症という病気があるのを知った。金森先生の場合がそれだというのではない。医者が知っているような病気ならば、当然脊椎のレントゲンも撮り、症状を聞いて正しく診断しているはずである。ただ、痛みや痺れの出ている足などには関係がなく、主因は遠く離れた脊柱管にあるという点が似ていなくもないかなと思った。

 ウィキを見ると、腰部脊柱管狭窄症の症状は「間欠性跛行(かんけつせいはこう)がみられる。歩行しているとだんだん足が痺れたり痛くなり、休むと回復するのが特徴である」とあり、患った著名人に桂歌丸やみのもんたの名前も出ているので、結構有名な病気だと思われる。背骨の内部を通る神経が狭くなった管の中で圧迫されるために起こる病気である。そのために、後ろに反り返ると痛みが強く、前屈みにすると楽になるとも言われる。

 金森先生は、バスに揺られたせいかも知れない、とおっしゃってもいた。一昨年東北大学から仙台市へ向かった時の車中を思い出した。学生でいっぱいのバスの中で、先生と私とは吊り革にぶら下がり、ずっと立ちっぱなしだった。先生の通う地震・噴火予知研究観測センターは、仙台城址が同じ敷地内の青葉山にある。バスの経路は曲がり道だらけの山道で、我々は揺られ続けた。吊り革にぶら下がって反って立っている姿勢は、仮に脊柱管狭窄症だったとしたら、一番悪い。

 私も以前、右手の指先が痺れていた。さほどの支障もなかったので長いこと放っておき、検診で医者を訪れたついでにその症状のことも話した。すると私の医者は、病院でX線写真を撮ってもらってからカイロプラクターに行くように、と指示をした。首筋が痛むわけでもないので意外だったが、手に行く神経は首の骨と骨の間を通って脊髄の外に出るため、上下の骨に挟まれ易いのだ、と聞いて納得した。そう言えば、と思い出した。それより前に頭を打ちつけたことがあったが、若い頃に何度かぶつけた衝撃に比べれば、何というほどのものでもなかったので忘れていた。

 この件に関する金森先生のコメントが、さすがに地震学者だと思わせるものであった。「普通の病院の診断は一般の地震学者が地震予知やるみたいなもので、よく分からなかったりします。非正規治療院のは、専門家でない人の地震予知同様、理屈は分からないけれど良い結果が出たりします」。

2015年7月28日 (火)

金森博雄教授と東京で8時間 その1

  「裏目の裏」が出た

「海洋底の縞模様」シリーズの下書きは、数回分づつまとめて、金森博雄教授に送ってきた。9月に出したメールで、今年も仙台でお会い出来ないでしょうか、とお尋ねした。それに対し、勿論良いですよ、というご返事をいただいた。大感激である。金森教授は2014年もその前年同様、私の訪日とほぼ同じ頃同じ期間、東北大学の客員教授として日本に行かれるご予定であった。

 私は10月8日に成田空港に到着し、その3日後からの1ヶ月間、東京で生活した。その1週間後に娘夫婦も訪日し、11日間、同じ新宿の一駅離れたホテルに滞在した。そのため何かと忙しく、本屋に行くことも、金森教授の本を日本で買う予定にしていたことも忘れていた。仙台でお会いするという話の方は、勿論忘れるはずもない重大予定ではあったのだが、日程が具体化しないことはかえって有り難かった。娘たちが羽田から発った翌日になり初めて書店を訪れ、そこで本のことを思い出した。何ともうかつなことである。もしも本を読まないまま先生にお会いしたとしたら、先生との会話が全く違うものになってしまった可能性もある。「裏目に出る」という言葉があるが、私の場合「裏目の裏」が出た、のかも知れない。

 もう一つ「裏目の裏」が出た。日程合わせの始まった10月末の段階で、私の仙台行きは不可能になった。先生は11月1日から9日まで東京に行くご予定だと。東京での方が私にとっても好都合ですと返信したところ、それに対する先生からのご返信は残念なものであった。右膝を傷め、今日も2つの病院に行ってきたところだというのである。「アクシデンタリー」という言葉もあり、「2つの病院」とあることからして、これは転倒だろうか、重大な事態かも知れない、と想像した。

 幸いなことに、私のその想像は間違いだった。「東京へ行くのに歩けるかどうかが問題だっただけで、そんな重病ではありません。今はもう病院から帰ってきています。11月3日(月)には東京へ行けそうです」というような内容のメールをいただいた。最初のご予定から2日遅れただけである。

 しかしその突発の痛みのおかげで、中国人研究者達に講演するという、メインの行事前の全ての予定はキャンセルされた。そのために、夕食を一緒にしながら話しましょう程度だった私との時間に余裕が出来た。そして何と、仙台から東京に到着した日の午後を、丸々私が頂戴することになった。もちろん私も、先生とそんなに長い時間を過ごすことになるとは期待していなかった。おそらくは、金森先生も同じ思いだったと思う。その日の予定がホテルへのチェックインだけであり、時間がたっぷりあったとはいうものの、まさか私と夕食まで一緒するとは、想定外だったはずである。

 ふつう議論して、2~3時間もすれば疲れてくる。食事や移動の時間があったとはいうものの、次から次へ話題が移り、激しい議論の応酬もあり、気が付いたら8時間も経っていた。楽しかった。1977年以来お会いするのはもう10数回になる。会えば4~5時間は当たり前であったが、さすがに8時間はなかった。新記録である。つくづく幸せ者だと思う。

2014年8月19日 (火)

金森博雄先生と仙台で議論 その5

  しゃぶしゃぶ店で、縞模様の話題

 金森博雄先生が客員教授として使っている東北大学の研究室で、そろそろ疲れてきたなと思って時計を見たら、まるで計ったかのように3時間と数分が過ぎたところだった。

 先生の宿舎は仙台市内にあるみたいだった。一緒に、かなりの混み具合のバスに揺られ、市内のレストランで夕食を共にした。しゃぶしゃぶの鍋を突っつきながら、更に2時間以上を過ごした。そろそろお腹もいっぱいとなり、肉やエビに伸ばす手のペースが落ちた頃、先生の言葉が雑談の流れを破った。

「中央海嶺の縞模様はどうなんでしょうかねえ?」

 録音はしてなかったので、話の流れも言葉遣いもはっきりとはしてないのだが、「縞模様」という言葉だけで私には思い当たることがあった。2010年の秋、東大の研究室にロバート・ゲラー氏を訪れた時、氏もやはり、似たようなことを語った。プレート・テクトニクス説が如何に矛盾や疑問に満ちていたとしても、縞模様という有利な証拠がある限り、プレート説を否定できないと言うのである。私の仮説の方が、プレート・テクトニクス説よりはるかに巧妙にその現象を説明できる、と心の中で思いはしたものの黙っていた。聞き入れてもらえそうにない雰囲気があったからである。

 仙台のそのしゃぶしゃぶ店は地下にあり、6人がけの客席が低い仕切りでコの字型に囲まれた、ゆったりとした造りになっている。その日は客もまばらだったため、かなりの大声でも他の客の迷惑にはならなかっただろう。とはいえその時の私の声は、それ以前より更に大きく、店内に響いていたのではないか、と後になれば思う。久しぶりに自説を説明できることで私は興奮していた。

 海洋底の縞模様の問題は、私のニュースレターで扱ったことがある。古いニュースレターを引っ張り出してみて驚いた。それは1993年11月号においてであった。先生とお会いしたのは2013年11月1日、奇しくも20年ぶりの説明であったのだ。一般受けする話題ではないし、と人に語ることもなく過ごしているうちに、信じ難い程の時が経ってしまった。

 「中央海嶺を横切る破砕帯には、ツゾー・ウィルソンにより、トランスフォーム断層という名前が付けられましたが、何故そのようなものが出来たのか、に対する答えは与えられていないままです。流体の湧き出し口である中央海嶺に 何故そのような断層ができたのか、全くに解釈できないはずです。それに反して私の仮説からは、 結晶化した玄武岩の収縮として、解釈が可能です」

 私は手振りを交えて興奮気味に説明したのだが、先生は無表情に聞いているだけだった。レストランを出てしばらくして別れ、仙台駅へ向かった。切符売り場はかなりの列で、ボードには最終便の席しかなかった。先生から反論があったりして私の説明がもう少し長くなっていたら、最終便の切符さえ買えなかったかもしれない。実際にはキャンセル券が買え、最終一つ前の新幹線で、東京に帰ることができた。

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