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2016年9月

2016年9月27日 (火)

選挙制度の根本的改革を その3

  何故18歳に選挙権を与えたのか?

 私は若い頃から、人が考えないようなことを考えるようにしてきた。「反票」という選挙制度も、そうしたアイデアの一つである。友人に語ったりもするのだが、反応は全くない。そうした体験の後、自分が無名である限りは、発表の方法すらないと諦めるようになっていった。

 ところが1982年以降、サンフランシスコの邦字紙に、不定期のコラムを書けるようになった。作家の石川好氏が、市井の隠れたアイデアを探す「10ドル運動」というのを始めたことがある。私はその運動を自分のコラムで扱った。丁度良い機会だと思い、自分の積年のアイデアを、その記事に忍び込ませた(日米時事1992年2月22日号)。しかし運の悪いことに、肝心な部分に誤植があり、分かり難い文章になった。そしてその時も、反応は全くになかった。

 その1年半後、徳間書店の月刊誌「サンサーラ」(1993年9月号)に岩国哲人氏の記事を発見した。小見出しに「衆議院選挙に一人五票制とマイナス票制を」とあるのが目を引いた。文中に、「仮に同じ選挙区の県民の8割が辞めてもらいたいと思っているとしても、2割が支持すれば当選してしまう」「その問題を解消するには、マイナス票を投じる権利をも有権者に与えることだ」「マイナス票が集中した候補者は、いくら2割の支持者の団結があっても当選できない」「国会議員は部分の意志ではなく、総意を反映するという点から言えば、このマイナス票を投じるという制度を導入しないと政治腐敗はなくならない」などの言葉があり、興味をそそられた。

 第1回目の冒頭に書いたように、私がこの選挙制度の問題を書いてみたくなったのは、「18歳が社会を変える? 選挙の経済学」という番組を見たからである。その番組を見て私は、いったい誰がどういう目的でこの制度を導入しようとしたのだろう?と疑問に思った。18・9歳の若者たちが、自分たちにも選挙権を与えよ!と要求したわけではない。安保闘争や全学連の時代に、彼らが選挙権を要求したとしたらどうなっていただろうか?とも思う。反抗的な若者の要求を、受け入れただろうとは思えない。そのことから逆に考えると、欲しいと望んでいたわけでもない若者に選挙権を与えるのは、彼らが従順だからだ、ということなのかも知れない。勘ぐり過ぎとも言えるが、今年の参議院選挙を照準にした上での話題作り、という可能性もなくはない。

 もしかすると、18・9歳の若者が選挙権を持ったとしても、選挙全体の傾向に何の影響も与えないとは、発案者自身、百も承知だったのではないだろうか? むしろ、既存の政治家にとって無害だからこそ、さほどの反対も受けずに法制化されたのだ。「反票」の場合は正反対であり、毒があり過ぎる。「自分の首に鈴を付けるネコ(政治家)」が果たしてどれだけいるだろうか? 今はただ、「反票」のアイデアがいつの日か実現したらいいな、という願望が、ネズミ(有権者)の間で広まることを祈るばかりである。最近は、マイナス票について話題にするネットも増えてきた。

 マスコミが18歳選挙権のような問題を扱う時、必ず用いる手法がある。「世界の先進国でこの制度を採用していないのは、日本とこれこれの小国だけだ」とか、「スエーデンの若者の投票率は80%を越える」とか、というのである。スエーデンのような高福祉国家を、国の借金が今でも際限なく膨れ上がる日本の範とすべきではない、と私は考えている。しかし日本人を納得させるには、論理ではなく、こうしたイメージ手法の方がはるかに効果があるみたいである。明治以降の欧米崇拝の流れで、北欧の国で行なわれていることならば全て間違いない、という思い込みがあるからかも知れない。

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