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2016年7月

2016年7月25日 (月)

選挙制度の根本的改革を その1

(このブログは科学的な問題だけにし、社会的な問題はいつか別の場で、と考えていた。しかし私の書くペースからすると、ブログの新設など望むべくもない。)

  投票したくない候補者たち

 5月26日(日本では5月18日)に放送されたオイコノミア「18歳が社会を変える? 選挙の経済学」を見て、選挙制度改革について考えさせられた。しかしそこで扱われた選挙制度改革は、枝葉の改革に過ぎない。もっと根本的な改革が必要なのに、と思った。積年の私の考えを書き残しておきたい。

 あれは高校生の頃だったと記憶する。新聞記事で選挙の記事を読み、制度そのものに問題があると考えた。中学生の時に社会科の先生が好きで、先生が顧問をしている社会研究部に入った。一人で国会議事堂に行き、傍聴したこともある。しかしその私が、選挙権を持ったら投票に行く気になるかと言うと、そんなことはなかった。というよりは、深く考えれば考える程、かえって行く気にならなくなる。

 「選挙権」という言葉があるけれども、行く気になってこその権利だ。「行け行け」とうるさく言われてやっと腰を上げるようなものが、権利であるはずはない。それに、権利であるとすれば、それを使う使わないは個人の裁量であり、納税の義務などとは違う。また、せっかくに時間を割いて投票した候補者が、後にどうしようもない人物だと知れたとすれば、一票分の責任がある。責任とまでは言わないにしても、投票所へ足を運んだ労力は何の為だったか、という気にはなることだろう。

 最近の例で言えば、舛添要一前都知事に票を投じた人は今、どんな気持になっているだろうか? テレビでよく見かけるというだけで、人は親しみを感じる。彼の言葉も説得力に溢れていた。彼のマイナス面を知らない一般人が、彼を選んだとしても不思議はない。しかし今回のような、個人的支出を政治資金でまかなう事件が明らかになってみると、彼が都知事になろうとした意図そのものが疑わしくなる。東京都を良くしよう、そのための公僕になろうというよりは、公職を自分の利得のために使おう、という基本姿勢がもともとあった人なのかも知れない。本人は、ポイントとかおまけを稼いだ程度のつもりだったのだろう。違法でないため「せこい」と言われるらしいが、私は、「ずる賢い人」なのだと思う。

 米国大統領選におけるトランプ氏の出現は、舛添氏の辞任どころでは済まされない重要な問題である。最近のあまりにも極端な差別的言動により、彼への支持率が一時下がったとは言うものの、また持ち直し、7月の時点では、クリントン氏と拮抗しているとも言われる。今後、彼がより慎重になるならば、あるいはそう装うならば、支持率は更に上昇し、11月の選挙直前の情勢次第では、彼が大統領になる可能性は充分にある。

 もしも彼が大統領になり、言葉通りの政治を行なったとするならば、世界の混乱ぶりは、英国のEU離脱どころの比ではない。世界最大の核保有軍事大国が、「感情の政治」によって支配される危うさは、想像もつかない。

 対するクリントン氏も、メール問題が禍いして、支持率が今一つ伸び悩んでいる。つまりは、どちらも積極的に選びたくなる候補者ではないのだ。恐らくは、トランプ氏あるいはクリントン氏を当選させるぐらいならば、という消極的な理由で、相手候補に票を投じる者も多く出ることであろう。これが、長い月日と巨額の選挙資金を注ぎ込んだ末の、うんざりする結果である。民主主義の根幹である選挙制度そのものが、いま問われている。

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