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2012年12月

2012年12月28日 (金)

私の原点 その2

   白馬は馬である 

 中学の同期会の食事の後、招待された3人の先生方がスピーチをした。我々の担任ではなかった男の先生のスピーチの中に、馬がどうとかいう話が出た。他の何年にもわたる生徒たちとの無数の体験があったはずの先生にとって、50年以上にしてなおも忘れられない事件だった、ということかも知れない。 

 「あ、あれ憶えてる。我々のクラスでの話だ」 

 白馬は馬だ。白馬は白い。ゆえに馬は白い。とかいう三段論法の話だった、と記憶している。ゆえにある馬は白い、とすれば当たり前の話なのだが、その「ある」を、故意にかどうか省いたので問題になった。誰かがそれはおかしいと言い、先生が抗弁した。教室の他の者たちが先生に反対し、ついには女生徒たちがしくしくと泣き出して、収拾がつかなくなった。 

 中学時代の私は、劣等感にさいなまされ、内向的で無口な少年だった、とつい最近まで自分では思っていた。ただ授業中は、ノートも取らずに先生の話を聞き続けた。後に東大を卒業した、小学校時代からの親友の授業態度を真似たのである。彼は、まるで先生をにらめるように凝視していた。自分の顔は分からないが、同じようだったのかもしれない。そのようにして先生の話に熱中していると、疑問もまたいろいろと沸いてきて、質問したくなった。腕組みしたままにらんでくる生徒が少なくとも2人はいる。そして、無遠慮な質問を平気でする。先生方からすると、確かに困ったクラスだったのだろう。 

 記憶はないが、「それはおかしいと最初に言い出した誰か」は私だったのかもしれない。そうだとすると、職員室でも有名なほどの困った質問をするクラスの元凶は、私だった可能性が高い。自分自身では、「権威を権威とも思わずに疑問を呈する」ようになったのは高校に入ってからだ、と思ってきたが、おとなしかったはずの中学3年時には既に、その萌芽が表に現れていたようである。 

 小学56年生からの私の関心は、社会の矛盾に向けられていた。理想の社会はどうあるべきか? 大学を卒業した時にも渡米した時にも、その主題は頭の片隅に常に存在していた。それが変わったのは、大陸の起源説であるヤスーンの仮説を思いついたからである。それ以来ずーっと、私は地球の科学者たちを相手に疑問を投げ続けている。一般社会にも影響を及ぼすような、思うような成果を未だに得られないのは、力をつけるべき若い時期に力を蓄えてこなかったからである。自業自得としか言いようがない。 

 私は、「何故?」「何故?」としつこく尋ねて回る幼児に過ぎない。あるいは、裸の王様を見て、「王様は裸だ」と思った通りをそのままに叫んだ少年に過ぎない。あるいは、先生たちを困らせる質問をする中学3年生から全く成長しないままの少年、と言うべきかも知れない。 

 ともかくも、自分の原点を知れたということが、今回の訪日の最大の収穫であった。同じ道を辿れて来れただけで、充分幸せであった。 

2012年12月22日 (土)

私の原点 その1

   中学校の同期会に出席 

 10月に日本に滞在中、中学校の同期会に出席した。通知を貰ったのは1ヶ月少し前、その時までに帰国後の大まかな日程は決まっていた。偶然に日にちが合ったというのが嬉しい。 

 渋谷のホテルの会場に10分近く遅れていくと、既に会は始まっていた。1学年で6クラス、約250人いた生徒の、1/3に当たる80数人が集まった。古希を過ぎての出席者にしては率がいい。先生方が3人もいたことは驚きだ。我々の担任だった女の先生が、その一人であるとは運がいい。逆算するとあの当時、大学を卒業されて間もなかったということになる。 

 同じクラスだった女性から「先生はあの頃、クラスの出来事をいろいろ記録されていらしたそうよ」という話を聞き、先生のテーブルに向かった。 

 「ええ、あなた方のクラスは、困った質問をするということで、職員室でも有名でした」 

 ああそうだったんだ。そう言われて思い出した。聖書の時間に質問したことがある。旧約聖書の故事、怪力のサムソンが柱を揺するシーンでは、カーテンをもろ手に抱え、ゆさゆさと身振り付きで説明するような先生だった。ある日、モーゼ(私はモーゼと教わった。近頃はモーセと言うみたいである)の十戒の話になった。 

 「なんじ父と母とを敬え。なんじ殺すなかれ。なんじ姦淫するなかれ。なんじ盗むな……」 

 「先生、姦淫ってどういう意味ですか?」私は質問した。 

 「かんいんとは……」と先生は答えかけて絶句した。教室のそこここから、くすくす笑いが聞こえた。その状況になって、鈍い私でも納得した。性教育のない当時の教室で、公然としてはならない話題だったんだ。 

 一般的に言って、キリスト教は性に厳しい。イエスは、情欲を持って女を見るものは、心の中で姦淫を犯したのと同じだ、と言っている。しかも、そのような目はえぐって捨てろ、とまで言っているから半端ではない(マタイ伝、5:24)。私が信者だったら、トンボほどの眼があっても間に合いそうにない。 

 モーゼの場合、「出エジプト」という民族の大移動中だったのだから、集団の秩序を壊しかねない行為に対し神が厳命を下した、というのは分からないでもない。しかし、男根をご神体とする大らかな宗教も多い中で、キリスト教の性に対する潔癖さは、異常とも思えるほどである。 

 神は、自分の姿に合わせて人間を創造した、とも言われる。ならば、神は何故、姦淫できる身体に人間を作ったのだろうか? もしもあの時聖書の先生が、絶句せずに答えてくれていたら、次に、そういう男女を何故神は作ったのですか? と質問してみるべきであった。あの当時ではまだ、そういう質問自体、思いつきもしなかっただろうが。 

2012年12月16日 (日)

清張氏の、守られた約束 その59

   いえ、違います。あなただーれ? 

 林さんの家では、スタンダード・ジャズの好きなご主人と気が合い、何曲かカラオケで交互に歌い合ったりした。 

 その時に悦子さんが、

「清張先生と紹介もなしにお会いして、その夜に食事に誘われた人は、他に聞いたことありません。ましてや、こうしてその後も長いことお付き合いが続いていて、お土産までいただいた方って、おそらく皆無でしょうね」

 と語ったのに対し、ご主人も

「私もたった一回、我々の結婚式の時にお会いしただけですよ」

 と言葉を引き継いだ。 

 清張氏との付き合いが長く続いたのは、林悦子さんのおかげである。一番最初に喫茶店で清張氏とお会いした後、彼女にも礼状を書いた。それに対し素早い返事が戻ってきた。手紙を書くのは苦にならないそうだ。それから文通が始まり、偶然にも、私が通っていた高校のかなり下の後輩であると知れたりした。彼女からの手紙の中に、清張氏の話が書いてあったことはめったにない。また、私の書いたことが氏に伝えられたことも殆んどない、と推測する。しかし、清張氏との雑談の折などに、私のことがひょこっと出なかったものでもないだろう。彼女による陰の力は大きかったはず、と今でも信じている。 

 清張氏の小説にかなり徹底的に手入れして、その原稿を送って以来なんら音沙汰もなく、疑心暗鬼になっていた私に、ラーメンの贈物は二重三重の意味で嬉しかった。清張氏は怒っていない。それを知っただけでも充分、とすら言えた。 

 翌日ラーメンの包みを、林さんが箱崎にタクシーで届けてくれた。当時は、箱崎でもチェックインの手続きが出来た。何を心配していたのだろう、と思えるほどあっけなく、ワープロの箱もラーメンの箱も、カウンターの裏に消えた。 

 まだ時間もあるからと、三人でお茶を飲んだ。昨夜も出た話だが、清張氏が如何に心の温かい人であるか、私のようなケースが如何にあり得ないことであるのか、の話題になった。その時の私の目には、泪があふれそうになっているのを感じた。

 成田空港で全ての手続きが終わってほっとした後、公衆電話から清張氏に電話をした。以前と同様、本人が電話口に出た。

「はい」

 という声の感じだけで、分からないではない。

「松本清張先生のお宅でしょうか?」

 一応確認のために念を入れた。あるいはそれがいけなかったのだろうか、数秒の間の後、

「いえ、違います」

 という返事。ここまで聞けば、本人だということは疑いようもない。しかし本人が否定している以上、どうしたものだろうか、と電話口で戸惑っていると、

「あなた、だーれ?」 

「あのー、篠塚です。アメリカの……」 

「あー。……君いつまでいるの?」 

「はい、今これから帰るところです。成田から電話しています」 

「ああ」 

「先生、ラーメン本当にありがとうございました」 

「うん。体に気をつけて、これからも頑張りなさい」 

「先生もヨーロッパ旅行、どうかお元気で」

 電話を切ってから、後ろに立っているワイフに気がついた。あー、しまった。一言ぐらい、佳代子にも挨拶をさせるべきだった。いくら旅行前で忙しいとはいえ、怒られるほどではなかっただろう。彼女に清張氏と話させる千載一遇のチャンスを逃した。 

 それにしても、このような形で電話口で断られることは当然ながらにあり得た。1982年に初めて電話した時が、このような状況でなかったことの幸運を、改めて思った。

 

2012年12月10日 (月)

清張氏の、守られた約束 その58

   一個千円のインスタントラーメン 

 その翌年の5月、佳代子と共に一週間、日本に行った。 

 ガーデナーというのは、なかなか一週間以上の休みを取れない。アメリカでは、あまり重要でない祭日は、月曜日に移したりするようになった。サラリーマンが連休を享受できるようにである。ところがそうなると、毎週一回芝生を刈りに行く、という契約をしているガーデナーには都合が悪い。私はその解決策として、5月第四月曜日のメモリアル・デイと、9月第一月曜日のレイバー・デイにかかる一週間を、ヴェケイションとした。メキシカンだけで仕事口を回させると、この前のように、移民官に捕まったりした場合などに対応できない。夫婦揃って日本に行くのはそうしたわけで、一週間と限られるようになった。また、その短い期間を有効に使うために、都心への交通の便のいい、駅前近くのビジネスホテルを使うようになった。 

 その時の訪日では、林悦子さんに3度も会っている。彼女は結婚していたが、解散した「霧プロ」の後身の、「霧企画」で前以上に忙しくしていた。帰国寸前に、我々は彼女の家に招待され、ご馳走になった。

「松本がヨーロッパに行く支度で忙しくて、お会いすることが出来ません。それで、私が代わりにご馳走してほしい、と頼まれました。レストランで、とも考えたのですが、アメリカでは自宅に招待する方が喜ばれる、とも主人が言いますもので……」

 自宅に呼ばれたのには、もう一つの理由があった。清張氏からの贈り物だ、というインスタントラーメンが、かなりの嵩のダンボールに入っていた。「明星新中華三昧 特別仕様」一個1000円のものが4種類、20個も入っていた。林さんの話では、注文したデパートだけでは足りなかったため、他の支店などから取り寄せて個数を揃えたらしい。 

 せっかくのご好意であるのに、私の最初の反応は違っていた。困ったな、と思った。既にワープロを買ってあったが、本体はさほど大きくもないのに、梱包されたものは予想外に大きかったのだ。その上に、もう一つの大きなダンボール。飛行機会社が受け付けてくれるだろうか、などと心配した。それで、半分貰ってくれないだろうか、と林夫妻に懇願した。 

 当然ながら断られた。

「確かに、かさばるもので大変でしょうが、アメリカで美味しいラーメンを食べられないだろうから、是非これを食べさせたい、と考えた松本の暖かい気持も酌んであげて下さい。私達は、千円もするインスタント・ラーメン、とても買う気にはなりませんが、試してみたければいつでも買えます」

 清張氏は当時、その特別仕様のラーメンを気に入り、年中食べていたらしい。考えてみれば、氏のような有名人が、普通のラーメン屋にひょこっと一人で入るのは、結構勇気の要ることであるかも知れない。 

 当時の林さんからの手紙には、

[篠塚さんへのあのラーメンも、先生自ら、三越の得意先係へ電話をし、一日で集められるだけの数を注文したといういきさつがあります。本当なら、もっと沢山集めたかったのですが、本店各支店を通じて集めたのがあの量でした。何しろ、帰国の日が決まっていましたので、日数がないだけに、大変なことでした。]

 とあった。新聞記事が同封されてあり、それには次のように書いてある。

[明星の千円ラーメン「新中華三昧(ざんまい)」は八七年十月から首都圏、大阪、名古屋、博多、札幌の主要百貨店に限定して順次、発売に踏み切った。そのころからメーカーの間で高級化路線をめざす動きが出ていたが、「インスタントで最高級のものを一度作ってみたかった。カップラーメンに押され気味の市場に、話題を提供するのもねらいだった」と同社の担当者。店頭に並ぶとすぐに売り切れた。だが、手づくりのため、生産は一日千個が限度。発売後一年ほどは予約販売方式をとり、商品が手元に届くのが一ヶ月先という状況が、しばらく続いた。]

 経緯を知らなかったからとは言え、その時とっさに、清張氏の心を酌むよりは、飛行機の手荷物制限の方を考えた自分が恥ずかしい。 

 普通インスタント・ラーメンの袋の表には、入ってもいないチャーシューの薄切りが、何枚も載せてある写真が出ている。しかしこの千円ラーメンの場合は、表の写真と同じものができるようになっている。豚肉の、とろけるような厚い切り身が入っていたのを記憶している。出来上がりは、高級中華料理店の麺と変わらない。なるほど高いわけだ。 

 これを書きながらちょっと気になったもので、明星食品に問い合わせてみた。すると、

[製造は1988年に終了し、1989年頃まで販売されていました。
  下記5種類がありました。 

・海鮮魚翅湯麺(フカヒレと蟹玉入り湯麺)

・枸杞銀耳湯麺(アワビ・エビ入り漢方湯麺)

・炭焼叉焼肉麺(炭火焼チャーシュー入りしょうゆ拉麺)

・紅焼排骨健力麺(スペアリブの焼豚入りしょうゆ拉麺)  

・香葱牛肉辣醤麺(牛肉とナマコ入り辛味噌拉麺)

 という回答をいただいた。 

 なんと! 私が清張氏から贈られた1989年6月の時点では、既に製造は中止され、デパートの在庫も殆んど底をついた状態、であったと推測される。ギリギリだったのだ。運のいいことであったと、今にして知る。 

「牛肉とナマコ入り辛味噌拉麺」というのは記憶にない。それ以外の4種類だったのだろう。私は、たかがインスタント・ラーメンに、そこまでこだわる職人の技術力に感動した。さすがに、鉄板をも切り裂く日本刀を生み出した国のことだけはある、と思った。その話を、当時行きつけの床屋の主人に話したら、お国自慢と取ったらしく、嫌な顔をされた。日本はクジラがどうの、などと逆襲して来た。

 

2012年12月 4日 (火)

清張氏の、守られた約束 その57

   清張氏の文章に手入れした 

 4月の手紙の後、清張氏にもう一通立て続けに手紙を出している。

[松本清張先生 

 大作家である先生の文章を変えさせてほしい、などという向こう見ずは他に居ず、さぞかし驚かれたことと思います。 

 あの手紙を書いた後、さっそくに始めてみました。そして、ずいぶん様々なことを発見しました。私は長いこと、既に出来上がった小説を書き変え、その制約の中で自分の主張を言い尽くすなど、不可能に近いと考えていました。又、あの「南半球の倒三角」を書いていただいたのは、先生の好意からであるのがはっきりと分かっているだけに、もう、扱っていただいただけで充分、それ以上何を望むことがあるか、と思っていました。ところが、この正月の御手紙により、今も尚本にまとめる予定であると知り、本は半永久的に残るもの故、ある程度の誤りを正させていただきたい、と考え直すようになりました。 

 実際に始めてみると、予想に反して、自分の言いたいことを十二分に入れ込むことが出来ます。しかも、現在の観測事実と合わない点を省いたりしたため、実に簡潔にまとまりました。俳句や和歌などと同様、制約があるからこそ、かえってよいのかも知れません。今まで、要約した小論文を十回以上も書き直してきましたが、それらのどれにも増して、一般人に理解され易そうです。 

 すっかり気に入りました。たとえ先生からOKが出ず、この形で世に出ることは永遠にない場合にも、私の説の説明のために、何らかの形で個人的に使わせていただこうと考えています。 

 それにしても、構図のよさには驚嘆します。ただ肉付きを変えただけで、これほど気に入ったものが出来上がる、とは想像もつきませんでした。 

 先生とお会いしてから、私の説は大きく発展しました。「対流があれば、地球は丸くなければならない」という点を前面に出すようになったのも、「北半球に大陸が多い」という、先生からの御指摘の結果です。又、一般人が、私の説のどこに最もひっかかるかを知ったのも、あの小説が出たことによる直接間接の結果です。あれ以来一般の人たちも、私の説に耳を傾けてくれるようになりました。そういう人達からの質問のおかげで、「太陽系には40以上もの月があり……」などの工夫をこらせるようになった訳です。 

「頭がヘンな男の発想」云々の個所にはびっくりしました。狂人が自分のことを狂人とは分かっていない、といわれるのと同様、「もう一つの月が落ちた」という考えが、他人にそれほど奇異に受け取られるようなものとは、自分では気づいていませんでした。それを知ったおかげで、今では自説の説明の仕方を、ずいぶんと変えています。 

 御多忙の先生にお願いするのは、何事によらず心苦しいのですが、どうか同封のコピイを、御一読下さるようお願い致します。お気に召されない場合にも、その結果をお知らせいただけましたら幸いです。早目に方向転換することが出来ます。 

 1988年5月30日]

 その後清張氏からの手紙はない。 

 私は、あまりにもぶしつけな手紙を出し続けたため、すっかり怒らせてしまったに違いない、と思った。それに、あの小説への手の入れ方も、半端なものではなかった。清張氏がせっかく調べた学説や私の説の説明を、遠慮なく削って直した。あれがいけなかったのだろうか? 

 

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