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2012年1月25日 (水)

地殻底のマグマ層 その20

  「地震予知の否定」が何を生むのか?

 島村英紀氏やロバート・ゲラー氏の、地震予知に対する批判を読むと、いちいちにもっともだと思う。地震は当てられる、という前提に立った東海地震体制は確かに奇妙なものだし、そこにばかり予算が回るようになっている行政の仕組みはおかしい。

 しかし、「地震予知の否定」は否定でしかない。やらない、ということから創造的な何かが生まれることはない。むしろ、錬金術から近代化学が生まれたように、方向は間違っていても、一生懸命に研究することが、正しい何かをもたらすかもしれないのである。そのような例は、科学史の中で数え切れないほどにある。

 また、膨大な予算を食い、何のためにやっているのかが分からなかった宇宙開発が、その後に、通信衛星、気象衛星、GPSなどなど、今では我々の生活に欠かせない数多くの成果をもたらした。そうしたことなどを考える時、地震予知とても、それによって地殻内部の姿があきらかになってくるならば、決して、「無駄」とばかりは言えない。

 かって、古代ギリシャのイオニアで科学が生まれたとき、それは哲学でもあった。人は、取り巻く世界や宇宙に対し、「何故?」と問い続けた。また、「物」の本性を知ろうとした。それはしかし、哲学者だけの特殊な性癖なのではなく、ヒトという種がサルの中から独立した時、既にして持っていた本性なのである。ヒトは動物の習性を知って、狩猟や牧畜に生かしたり、植物や気象、地質を知って、農耕に生かしたりした。

 ヒトが知りたい、と願うのは、種としての本性である。それは必ずしも良いことばかりをもたらすわけではない。核兵器をはじめとする大量破壊兵器、大気汚染をはじめとするあらゆる汚染(中には、壊れた人工衛星の残骸などによる宇宙空間汚染、というのまである)などが、知的好奇心によりもたらされた弊害の例である。

 そして、地殻というのは、我々に残された最後のフロンティアの一つである。仮に地震予知研究により何らかの弊害がもたらされるとしても、それが我々の地殻に対する知識をいくぶんかでも増大してくれるならば、その道を進まなければならない。ただし、予知の結果を性急に求めるのではなく、「地震とは何か?」「地震はなぜ起こるのか?」という、本質的な問題に対する追求こそが主となるのでなくてはならない。     

 哲学にとって、そして本来は科学にとっても、重要なもう一つの機能は、「疑う」ということである。常識を疑い、定説を疑うことは、有能な科学者の特性であるはずである。それなのに、地震予知の体制を疑う島村氏やゲラー氏が、何故、その疑うという同じ姿勢を、プレート・テクトニクス説そのものに向けないのか? 

 プレート・テクトニクス説は、体系的に見た場合、さまざまな相互矛盾を抱えている。そのような体系から導き出される予測が、まぐれ以外、的中することはない。地震予知が出来ないのも、プレート・テクトニクス説に描かれる姿が、地中の現実と、遠くかけ離れているからである。

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