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2012年1月

2012年1月30日 (月)

地殻底のマグマ層 その21

  カール・セーガンの「定説を批判せよ」

 定説を疑う、ということに関して、カール・セーガンが非常に良い言葉を残している。原文はBroca’s Brain (日本語版「サイエンス・アドベンチャー」、新潮選書、1986)の7章にある。私なりの思い入れもあるので、以下に、あえて自分で訳してみる。

[科学は自ら軌道修正していくものである。最も根本的な原理や結論でさえも、挑戦の対象になりうる。世に普及している定説も、観測による検証を通して生き残らなければならない。そのために、権威に訴えることは許されない。論証の過程は全ての者に公開されなければならない。実験は再現可能でなくてはならない。]

[現在普及している優勢な定説に対し、理の通った批判を加えることは、そうした定説の支持者にとっても、有益な貢献になる。もしも彼らがその説を弁護し切れなかった場合、そんな説は捨ててしまいなさい、と忠告してあげた方がよい。自らに問いかけ、誤りを正していく、科学的方法のこうした側面は、科学の最も素晴らしい特性である。そしてその点において、信じ易さ、軽信に支配されている人間活動の他の多くの分野とは、はっきりと異なるものである。]   

[科学の本質は、知識の集積にあるのではなく、方法にある。]

 カール・セーガンを一躍有名にしたのは、「コスモス」というテレビのシリーズによる。ウィキで調べると、1980年とある。そうか、もうそんな昔だったのか。あるいは、私が見たのはその後に再放送された時だったかもしれない。1回が1時間、それが13週にわたって続く大部のシリーズである。半端ではない。

 同じ頃に本も出版され、私は買って読んだ。ヒアリングが苦手でテレビでは分からなかったところもよく理解でき、私は感動した。哲学がある、と思った。ノーベル賞を取ったとかの革新的な業績があるわけではないが、当時の科学ファンにとっては、プレスリ-やビートルズのようなスーパースターであったかもしれない。

 サンフランシスコ界隈には、私が知る限りでは4回講演に来た。1994年の講演会は、スタンフォード大学のある町パロアルトの、ホテルの講堂で行われた。講演の後、演台を立ち去ろうとするセーガン氏を呼び止め、「これを読まれたことありますか?」と、私のニュースレターのタイトルを指し示しながら尋ねた。

 それに対する答えは、「ええ、ときどき読んでいますよ。ありがとう」というものであった。その礼儀正しさに感動し、やはり頂点に立つ者は違うものだ、と思った。

 このように、人間的にも尊敬し、言葉や思想にも共鳴しているカール・セーガンではあるが、上に引用した言葉が現実の科学者の心に届く、とはとても考えられない。

 もしも批判精神が旺盛であり、疑うということが地球科学の世界における慣行であったなら、実験実証を伴わない説明するためだけの新説が、無数に生み出されるという現在の状況は、生まれ得なかったであろう。

 科学は宗教とは違うのだ。疑うことによって、論理的な整合性を求めることによって、科学の原点に立ち戻ってほしい、と願わずにはいられない。

2012年1月25日 (水)

地殻底のマグマ層 その20

  「地震予知の否定」が何を生むのか?

 島村英紀氏やロバート・ゲラー氏の、地震予知に対する批判を読むと、いちいちにもっともだと思う。地震は当てられる、という前提に立った東海地震体制は確かに奇妙なものだし、そこにばかり予算が回るようになっている行政の仕組みはおかしい。

 しかし、「地震予知の否定」は否定でしかない。やらない、ということから創造的な何かが生まれることはない。むしろ、錬金術から近代化学が生まれたように、方向は間違っていても、一生懸命に研究することが、正しい何かをもたらすかもしれないのである。そのような例は、科学史の中で数え切れないほどにある。

 また、膨大な予算を食い、何のためにやっているのかが分からなかった宇宙開発が、その後に、通信衛星、気象衛星、GPSなどなど、今では我々の生活に欠かせない数多くの成果をもたらした。そうしたことなどを考える時、地震予知とても、それによって地殻内部の姿があきらかになってくるならば、決して、「無駄」とばかりは言えない。

 かって、古代ギリシャのイオニアで科学が生まれたとき、それは哲学でもあった。人は、取り巻く世界や宇宙に対し、「何故?」と問い続けた。また、「物」の本性を知ろうとした。それはしかし、哲学者だけの特殊な性癖なのではなく、ヒトという種がサルの中から独立した時、既にして持っていた本性なのである。ヒトは動物の習性を知って、狩猟や牧畜に生かしたり、植物や気象、地質を知って、農耕に生かしたりした。

 ヒトが知りたい、と願うのは、種としての本性である。それは必ずしも良いことばかりをもたらすわけではない。核兵器をはじめとする大量破壊兵器、大気汚染をはじめとするあらゆる汚染(中には、壊れた人工衛星の残骸などによる宇宙空間汚染、というのまである)などが、知的好奇心によりもたらされた弊害の例である。

 そして、地殻というのは、我々に残された最後のフロンティアの一つである。仮に地震予知研究により何らかの弊害がもたらされるとしても、それが我々の地殻に対する知識をいくぶんかでも増大してくれるならば、その道を進まなければならない。ただし、予知の結果を性急に求めるのではなく、「地震とは何か?」「地震はなぜ起こるのか?」という、本質的な問題に対する追求こそが主となるのでなくてはならない。     

 哲学にとって、そして本来は科学にとっても、重要なもう一つの機能は、「疑う」ということである。常識を疑い、定説を疑うことは、有能な科学者の特性であるはずである。それなのに、地震予知の体制を疑う島村氏やゲラー氏が、何故、その疑うという同じ姿勢を、プレート・テクトニクス説そのものに向けないのか? 

 プレート・テクトニクス説は、体系的に見た場合、さまざまな相互矛盾を抱えている。そのような体系から導き出される予測が、まぐれ以外、的中することはない。地震予知が出来ないのも、プレート・テクトニクス説に描かれる姿が、地中の現実と、遠くかけ離れているからである。

2012年1月20日 (金)

地殻底のマグマ層 その19

(このシリーズは、2010年秋にお会いした学者たちを紹介する目的で、それ以前に私がどのような本を読んでいたか、を書くつもりで始めた。調べ直しているうちにどんどん長くなり、一応30回分ほどの下書きを書き終えた。ところが昨年3月の地震で中断し、再開したものの、また原発についてを書くために中断した。今回再び再開する)

  地震予知が出来ても困る
 2009年12月に、サンフランシスコ一帯に地震が起こる、という噂が、その数ヶ月前から広まった。私が聞いたのはほぼ直前になってだったが、それを教えてくれた友人に、どう思うか、と聞かれた時、

 「そういう予測が当たってしまうと、かえってその後が困る」と答えている。

 インターネットで調べると、数多くの地震予知のサイトがある。あるものは電磁波であり、あるものは地震雲である。どのような計測をするのか分からないが、イオンというのもある。それら全てが間違っている、と言うつもりはない。中には、人類の歴史を変えるような素晴らしい方法があるかもしれない。

 しかし、動物の異常行動などを含め、すべての宏観異常現象観測による地震予知には、どこかいかがわしさが付きまとっている。そして、そういういかがわしさは、結論を急ぎ過ぎることから来ている、と私は考えている。科学にとって、結論よりも、その結論がいかに導き出されたかの過程が重要なのである。それは、インドの算数教育において、答えだけが合っていても正解とはみなされない。答えを出すまでの過程が重視される、と言われるのと似ている。

 既に述べたように、理論やモデルから予測を立て、それが的中することが重要ではある。しかし、的中することばかりが問題にされると、それは科学から離れ、ギリシャ神話や旧約聖書にあるような、予言の世界に近付いてしまう。

 地震予知というのは見えない世界を扱うだけに、どんなに科学が進歩しても、100%当たる予測を出すことは出来ない。天気予報ほどの確率で当てることすら難しいだろう。ところが、当たらなかった場合の影響は、天気予報とは比較にならないほど大きい。しかも、天気予報が当たらなかったからといって死者が出ることはめったにないのに反し、地震予知の場合、外れることによる被害は、桁違いに大きい。

 18年という中期予想ながら、関東大震災を言い当てた男がいる。東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)助教授の今村明恒である。彼は後に、東南海地震(M7.9)、南海地震(M8.0)をも予想して当たっている。

 彼はまた、津波の原因が海底下の地震である、と当時としては画期的な説を立てて当たっているし、関東大震災に対する災害の予測もほぼ正しいものであった。

 ところが彼の警告は、社会にそのまま受け入れられることはなく、「ほら吹き」とみなされて、累(るい)は父親やその他の家族にまで及んだ。いま彼の業績を読み直してみると、感動するほどに、社会のために役立つことを願い、ただ当てるというよりは、被害の軽減のために努力している。彼の真意を曲げたものは、大衆を煽るセンセーショナルなメディアであった。(今村に関しては、吉村昭著「関東大震災」に詳しい。金森博雄先生に何回かにわたって薦(すす)められ、2010年に日本で買ってきて読み、驚いた。これは、地震に関心をもつ者すべてが読む本である、と思う。島村英紀氏のサイトにも、今村のエピソードが出ている。)

 今はまだ、地震予知が当たることはめったになく、メディアや社会が本気で相手にしていないから、大きな問題にはなっていないのだ。もしも何回かに一回は当たる、ということになった場合、かえって、予測もつかないような悲惨な事態が、当事者や、予測された地方などに降りかかる可能性もある。

2012年1月14日 (土)

原発問題を考える その22

  原発反対のむなしさ

 昨年10月は東京に滞在し、紀伊国屋などの書店も何度か訪れた。

 平積みの台には、原発関連の本がずらーっと並んでいた。いちいち手に取って見たわけではないが、そのほとんどが、原発反対のものであったに違いない。このシリーズで書いたこともあり、著者の名前だけで、主張の内容はだいたい見当がつくようにも思われた。

 ところがニュースなどで聞かれる政治の動きなどを見ると、書店で感じられる原発反対の声などはどこ吹く風、福島で深刻な原発事故があったことすら疑わせるほどである。例えば、野田首相は、10月末のベトナム首相との会談で、以前からの、日本による原子力発電所建設計画を予定通り推進する、との合意に達したとある。

 このシリーズの「その12 原発を買うベトナムは強か」「その13 アメリカの会社を訴えられないか?」でも書いたことだが、それは、日本の国を破滅させかねないほど危険な取引である。

 一般に、日本人は非常に温和で人がいい。震災などの後でも誰も行列を乱さないし、暴動が起こったりもしない。ついつい相手の立場になって考え、このぐらいのことならばいいか、と簡単に譲歩する。ところが他の国は、違っていることが多い。70年近く経っても慰安婦のことを忘れようとはしないし、日本以上の経済大国になっても賠償や援助を求める。

 外国では、タイの大洪水のような、日本人が考えつきもしないような災害が起こる場合もある。もしも福島級の大事故が外国で起こった場合、彼らは日本人と違って、自国の政府にではなく日本に補償を求める可能性も強い。しかも、放射能の残っている間ずっとであるかもしれない。

 それにもかかわらず、海外での原発建設を阻止しようという動きが顕在化しているようには見えない。それどころか、原発反対の動き自体、沈静化し始めていると私には思える。玄海4号機は再稼動したとあるし、その他の原発も機を窺(うかが)っている状態のようである。

 インターネットで「原発 再稼動」で調べていたら、企業アンケートの結果、再稼動すべきだは29%、に対し、すべきでないはわずか4%に過ぎない、という記事を見つけて唖然とした。電力が足りなくなるかもしれないという恐れは、それほどにも大きいものなのだろうか?

 放射性物質は子や孫の世代の健康を害するから、放射性廃棄物というツケを将来に残すことになるから、などの理由による原発反対の声は、経済優先の力学の中で、全く省みられることはない。票や政治資金のため、今のみを重視する日本の政治家は、財界やその御用マスコミの声にだけ耳を傾ける。「私たちはずっと負け続けてきました」と語った原発反対の原子力学者がいるが、その通りである。何ともむなしい。

 しかしもしももう一度、原発事故が起こったとしたら(次の事故は、必ずしも自然災害によるものとは限らない。オーム真理教のような国内の団体、9・11のような海外からの自爆テロ、予想もつかないような形の、人為的なものによる可能性も強い)、「歴史はくり返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」の言葉通り、日本は世界の笑いものになる。経験から何も学ばない国として。

2012年1月10日 (火)

清張氏の、守られた約束 その44

  専門家相手に互角の議論

 4月中旬になって、日本滞在中に世話になった数多くの人たちに礼状を書いた。その最初は、勿論、清張氏へである。

[松本清張先生

 その後いかがお過ごしでしょうか? ヨーロッパ旅行の準備のため、超多忙の日々を過されていることと、推察いたします。

 今、何故か寂しい気がします。塩漬けのナスのような、薄青い、しわしわの心を持て余しています。日本へ行く前の、張り詰めた、しかし不安を伴った、あの心の対極なのかもしれません。

 今回の旅行は、正味12日のうち5日は、雪かみぞれに悩まされました。本のつまった重い鞄と、地球儀の入った紙袋をかかえ、それらが濡れないように、折り畳み傘をさすのは、かなり難儀なことではありましたが、今となっては、貴重な思い出です。昼はたいてい、そばか立ち食いの軽食で済ませ、日に2~3件以上、実に色々な人達と会いました。こちらを発つ前に会いたいと考えていた人、全てと会うことができただけではなく,予定外の人たちとも会えたり。その意味では大成功だったと言えます。

 中でも、帰国の二日前には、朝のうち、東大地震研究所の上田誠也氏と2時間、午後は4時間たっぷり、ウータン(学習研究社の出している科学雑誌)の編集員と議論をしました。

 17年前に、初めてアイデアを得た時には、初名乗りの功名心だの、名声欲だのの、“色気があったことも事実です。しかし、挫折挫折の長い歴史の中で、そうした甘い期待などは、とっくに吹っ飛んでしまいました。ただもう理解してもらえさえしたらいい……。

 今回、思う存分議論した結果……、やはり、先生以外の理解者を得ることが出来ませんでした。「証拠がない」とよく言われました。考古学と違い、掘ったら歴然とした証拠が出るというものではなく、謎解きの最大のカギが地形というのでは、筆跡鑑定と同じぐらいの、説得能力しかないのかもしれません。「私のようなずぶの素人が、専門の学者や科学雑誌編集者を相手に、互角の議論ができ、あなた方からの、殆んどの質問に答えられるのは、私が議論がうまいからでもこじつけが上手だからでもなく、真実それに近いことがあったからだ、とは思えませんか? 逆に、大陸移動説やプレート・テクトニクス説を、私が思いついたと考えてみて下さい。たちどころに答えにつまっているはずです」。勿論このような私の論理で、誰かを説得し得るとは思えませんが、私自身の信念が議論の度ごとに、このようにして強まっていくのも確かです。

 上田誠也氏は、他人の説の受け売りではなく、自分の頭で理解しようとする、この分野における、日本でおそらく唯一の人物ではないかと思います。「異説にも耳を傾けることのできる人といったら、上田さん以外にはいないでしょうね」と言っていた、パサデナのカリフォルニア工科大学地震学教授、金森博雄氏の言葉の通りでした。いつかどこかの企画で、清張先生と上田誠也氏の対談が実現したら素晴しいと思います。

 私自身の説が世に入れられるのは、現在のプレート・テクトニクス説が、行き詰まってからでなければ無理と思われます。これからは、自分の死後に、私の説の存在だけでも伝わるようにすることと、日本人以外の人種に働きかけてみることとが、新たな目標ということになるでしょう。私の英語がもっと流暢でないと、対等な議論はかないません。その準備にだけでも、数年はかかることでしょう。

 日本で、予想以上の人々と会うことができたのは、間違いなく、先生と、先生のあの小説のおかげです。何にもまさる紹介状でした。また、それを充分承知の上で、あの小説を書いていただいたのだと思います。温かいお心遣い、深く深く肝に銘じております。

 今後とも、経過報告をさせていただいてよろしいでしょうか? お忙しい先生からのお返事を、勿論期待していません。読み捨てて下さい。

 色紙のことを、妻がこの上ない喜び方で喜んでいました。手紙を書き慣れないもので、何回も書き直したあげく、結局簡単な礼状を完成させたようです。

 どうかお元気で。ヨーロッパ旅行の成果を楽しみにしています。]

2012年1月 6日 (金)

清張氏の、守られた約束 その43

  七転び八起きで頑張りなさい

 清張氏の小説が出たことで、こんどこそは、と高揚した気持で日本へ帰ったが、仮説を世に出すという点では何も進展がなかった。無名だからこそ誰も相手にしないのだ、と思っていた。「松本清張」という名前を借りられれば、何とかなるかもしれない、と思っていた。しかし、実用性のないアイデアを世に出すというのは、並大抵のことではないのだと、その時もまた、思い知らされることになった。

 朝日新聞社からの帰り道、道路わきの小さな店でたいやきを買って、歩きながら食べた。左手には角張った革のカバンを提げ、右手には地球儀を入れた大きな紙袋を、濡らさないようにと気を使いながら傘を持ち、更にその手で、たいやきを口に運んだ。みぞれ混じりの冷たい雨の中で、たいやきの温もりが手と心とを癒した。

 アメリカに戻る直前になって林さんから電話があり、霧プロに出かけた。清張氏からだという色紙が二枚、手渡された。その一枚には、だるまの絵が描かれてあった。その絵には、

「これから先も大変でしょうが、七転び八起きで頑張りなさい、と松本が申しておりました」

 との言葉が添えられた。実際にもその言葉は、その後の私をくじけそうになるたびに支えてくれた。

 後年、氏はだるまの絵が好きで、沢山の人に、だるまの絵を描いた色紙を贈っていると知った。小倉の松本清張記念館の、地下の喫茶室の壁にもいくつか貼ってある。

 我が家の部屋の壁に飾ってあるのを見て、友人の一人が、

「これ、篠塚さんの顔を描いたんじゃない?」

 と言った。そう言われてみると、そう見えなくもない。頭にかぶった僧衣のひさし、とばかり思っていた部分が、髪の毛のようにも見える。

 もう一枚の色紙には、「伝奈良般若寺仏頭」とあり、非常に美しい仏の顔が描かれていた。当時は、忙しい氏がどうやってこれを描いたのだろう、と思っていたが、精巧な印刷なのだろう。霧プロの壁にも同じものがかかっていたし、小倉の記念館にもあった。「篠塚佳代子様」と書き添えられている点が、我々にとっての特別な価値である。

 そういえば数日前に、義理の妹が、

「おにいさま、林さんとおっしゃる方からお電話がありました。カヨコってどう書くのですか? と聞かれましたので、お答えしておきました」

 と言っていた。しかし、清張先生とはもう終わった、と思い込んでいた私は、何故だろうとも考えず、ふーん、と軽く聞いただけだった。

 だるまの絵の色紙を描かれた後、佳代子へも、と思いつかれたのだろう。「南半球の倒三角」の中で、前後のつながりもなく突然出てくるあの言葉、「家内もぼくの意志に賛成し、援助してくれました」の時と全く同じである。清張氏には、私のような男を支えるのがどれほど大変であるか、というのが見えるのだろう。佳代子への色紙は、そのねぎらいのつもりであったにちがいない。

 事実、帰宅してみたらこの2週間、彼女は悪戦苦闘していたのだった。

「ホセはとてもよくやってくれたわよ。私が毎朝、少し早めにアパートに迎えに行っても、必ずすぐ出てきてくれたし、よく働いてくれた。でも、カスタマーの住所をよく憶えていなくて、何回も、道を間違えたりもしたわ」

 見晴らしのいい崖の鼻に建つ客の家もあり、そこではトラックを、家の前の小さなスペースに駐車しなければならない。帰りはUターンすることもままならず、100メートルほどの私道を、バックのままで下らなければならない。トラックはごみ入れ用の大きな箱を装備しているために、背の窓から、直接見ることもできない。バックミラーだけで何回も行きつ戻りつし、脇の崖に落ちそうになり、あやうく泣き出すところだった、とも話した。ホセが運転をかわったそうだ。彼らは無免許でも運転はできる。

 メキシコでは免許などいらない。持っていてもいなくても、捕まったときに握らせる額は同じだ、とあるメキシカンが言っていた。メキシコでは路上で強盗事件などがあると、警察官はそれを目撃しても見てない振りをし、犯人がいなくなってから、現場に現われるのだそうだ。まさか、と思わないでもないが、たぶん本当だろう。警察官が巻き添えを恐れる、というのはありそうである。

 仏頭の絵は、留守中に苦労した佳代子への最良の土産になった。彼女が、書を書いてもらいたい、と思いつかなかったら、達磨や仏頭の絵も貰っていなかったかもしれない。そうすればそれから長いこと、清張氏とはもうこれで終わった、と思い続けていた可能性もある。

2012年1月 2日 (月)

清張氏の、守られた約束 その42

  宇宙での対流実験は不可能か?

 日本滞在中2~3の科学雑誌社を訪れた。その一つでは興味を持たれ、3~4人の編集部員が集まり、写真も撮られた。3~4時間ほど、持ち込んだ地球儀を指さしながら説明した後、編集員の一人が質問した。

「それで、大陸を動かしたのがマントル対流でないとすると、何が大陸を動かしたんですか?」

 私は唖然とした。大陸はヤスーン落下以降、上下には動いても水平移動はしなかった、ということを説明してきたつもりだったのだが、その根本のところが全く通じていなかった。そして、大陸移動説はこれほどにも事実として、人々の頭に染みついているのか、とも思った。

 私の表情は読まれてしまったのだろう、その時点でボツになった、と推量した。

 朝日新聞社へは、科学記者の木村繁氏に会いに出かけた。以前同社でスペース・シャトルに載せる実験を公募し、私も応募した。

「ヤスー」の本の中で私は、次のように書いたことがある。

[たいていの地質学の本には、マントルの中で、数ヶ所の対流が起こっている地球の断面図がある。まさに絵に描いたような、理想的な対流が現実の地球で起こっているのを、どのようにして証明することができるだろうか。中央海嶺上は地熱流量が大きく、海溝では反対に小さい。中央海嶺は高まり、海溝は低い。それらの事実は、なるほど対流論にとって有力ではあり得ても、それだけでは、対流の存在を証明したことにはならない。私の考えでは、対流論を証明する最良の方法は、地球の模型を作って、無重力の人工衛星の中で実験することである。中心核に熱源を置き、適当な液体をつめたガラス球を空間に漂わせた場合、はたしてどのような対流模様が見られるであろうか]

 

 応募はこれに基づいて、スペース・シャトル内で対流実験をしてほしい、ということである。結果発表の記事には、人口雪の結晶を宇宙で作る、という案が選ばれたとあった。また、対流実験を、という応募も数多くあったが、無重力空間で対流は起こり得ない、というコメントも付いていた。

 しまった。言葉が足りなかった。キャベンディッシュの重力実験、というのがある。棒の両端に小さな鉄の球をつけ、棒の中心に紐をつけて吊るす。その二つの小球のどちらかに同じ材質の大きな球を近づけると、小球は、大球に引き寄せられる。地球の重力に対して水平方向なので、これは純粋に、大球の重力だけの影響である。重力というのは非常に小さい力なので、実際の実験では、周りの空気の乱れなどに影響されないようにしなくてはならず、結構大変らしい。

 微小な力とはいえ、そのような形で重力があるならば、宇宙空間で対流実験をすることが可能であるかもしれない。液体で満たされたガラス球の中心に大きな金属球を置き、液体の中の金属粉を浮遊させる。その上で、中心の金属球に電流を通して熱したりしたら、対流が起きる可能性もある。

 勿論それは、理屈の上では、だけのことであり、その程度の大きさの金属球では、観測にかかるほどの重力は、ないかもしれない。

 この場合のガラス球は地球であり、中心の金属球は、地球内の核に相当する。ガラス球を満たす液体は、マントル物質を表わし、もしもマントルに対流があるならば、その液体と同じパターンを示すはずである。

 地球の自転が全く影響を及ぼさない、と仮定した場合には、核の大きさだけがパターンを変える因子となる。核が小さいと対流が深いため、対流渦は大きくなる。例えば、両極で上昇し赤道で下降する、ようなパターンが考えられる。それは、全体でたった2つの対流渦である。核が大きくなるにつれ、2つが4つになり8つになり、まるで、細胞分裂のようになると思われる。

 これ以上の説明は、話を難解にするばかりなので避けるが、私が宇宙での対流実験を提案するのは、科学者たちが提示する実験や図に対する反証としてである。となれば、そうした対流実験が可能であるとしてさえも、そういう装置を開発しようとする科学者は現れないだろう。仮に、私の言葉が足りていたとしても、私の応募が朝日新聞に採用される可能性は、万に一つもなかったと思う。

 木村氏との対話で、対流実験のことはあまり触れなかった。もはや終わったこと、と思っていた。彼は親切にも、彼の書いた「宇宙の実験工場――スペースシャトルで雪にいどむ」(朝日新聞社、1983年)という本をくれた。

 私の説明を聞いた後、木村氏は、

「あなたはサイエンス・フィクションのセンスを持っているんじゃないかなあ。どうです、書いてみませんか?」

 と言った。

 この言葉は、案外長いこと心に残り、二度それらしいものを書いたことがある。しかし私には、サイエンス・フィクションどころか、小説の才能も皆無のようである。書き上げた後自分で読み返してみて、やっぱり駄目だ、と思った。

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