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2011年12月

2011年12月29日 (木)

清張氏の、守られた約束 その41

  岡崎満義文春編集長との話

 実際に数日後、文藝春秋誌を訪れ、岡崎満義編集長と面会することができた。文藝春秋社の一階に広い応接室があり、丸テーブルが幾つか並んでいた。その一つに坐り、柔道の選手だったかと思わせるような、威風堂々とした岡崎氏から様々な話を聞いた。

 一年半前に、清張氏から「ヤスー」の本が持ち込まれたので、検討したことがあるという。地質学の大学院生に読ませたりもしたが、これは取り上げられない、ということになったらしい。ところが清張氏はあきらめず、テレビ朝日の取材班とインド各地を歴訪したときに、摩崖彫刻や海岸寺院を見て、これだ、と着想を得られたそうだ。

 バックパッカーの日本人青年に、声をかけられたこともあったとか。話を聞いているときには小説とそっくりだったのかな、とイメージしていたが、今考えると、必ずしも小説にあるのと同じ状況でなくともよい。日本人青年が声をかけたのは、インドはインドでも、別の土地であったかもしれない。

 いずれにしても、周りの編集者たちからの反対にもかかわらず、一年半もの間、私と私の説についてを忘れず、小説にするための舞台と構想とを探し続けていた、ということになる。私としては、そのことに感動した。

 岡崎氏は、「印度放浪」の著者、藤原新也氏の文章を絶賛していた。その言葉のおかげもあり、後になり、朝日文庫で出版されたものを買って読んだ。衝撃的だった。インドって、そんなに凄い所なのか? 川を死体や汚物が流れ、乞食がまとわり付く。「南半球の倒三角」の舞台を一度は訪ねてみたいのだが、白川保雄と違って、現実の私にその勇気はない。

 まず暑いということ。それはまあ、何とかなるだろう。しかし胃腸が弱く、すぐに下痢しがちな私は、とても、観光旅行などは無理だ。トイレにこもったきり、半日ぐらいは出てこれそうにない。

 小沢昭一氏だったろうか、インドへ行ったとき、やはりひどい下痢をした。それを現地の日本領事館員に話したところ、「私など赴任して以来2年ほど、下痢のしっぱなしです。だいたい、便が固くなければいけないと、誰が決めたんですか」という答えが返ってきたという。そこまで達観できればたいしたものである。そういう場所であっても長く生活しなければならないとなれば、覚悟もおのずと違ってくるのだろう。

 若い頃の私は世界放浪の旅に出たいと思い、アメリカに出てきた。世間知らずだったし、甘過ぎた。最初の地のサンフランシスコ近郊で挫折して、本当に良かった。もしも実行し続けていたら、隣国のメキシコで、早くも行き倒れになっていたことだろう。あそこもインド同様、食事はめちゃくちゃ辛い。また水が悪く、氷が入っている飲み物をうっかり飲んだだけで、下痢をする国らしい。

 私は、南の暑い国でなぜ辛い料理が好まれるのだろう、と考えたことがある。もしかすると、水や食物の腐敗に関係があるのではないだろうか。暑い所ほど、細菌も又よく繁殖する。そうした細菌の繁殖や、動物による摂食と対抗するために、植物は辛み成分を作るようになった。そういえば、インド貿易で一番ヨーロッパ人に喜ばれたのはスパイスだった、という話をどこかで読んだ記憶がある。冷蔵庫がない時代、スパイスは食品を長持ちさせるのに役立ったようである。

 したがって、辛い料理を平気で食べられる、頑健な胃腸を持っている者ほど、暑い国では病気になる率が少なく、長生きできるのかもしれない。辛いものを食べても、ちょっと変わったものを食べても下痢をする私など、そういう土地で生き残れるわけもない。

 岡崎氏は若い頃、清張氏に従ってキューバに行ったことがある、とも話してくれた。その帰り途、アメリカに寄ったとき、税関で清張氏だけ素っ裸にされたらしい。反米的なものもずいぶん書いているので、税関のブラックリストに載っていたのかも知れない、と解釈しながら話を聞いていた。しかし後で年譜などを調べると、アメリカにも結構来ているようである。実際、最初の電話のとき、カリフォルニアに来る予定がある、とも言っていた。結果的に反米と受け取られがちであっても、本人にその意識は全くなかったのかもしれない。真実を暴いた、というだけのつもりだったのだろう。

2011年12月24日 (土)

清張氏の、守られた約束 その40

  小説家の調査は付け焼刃だよ

 タイミングを見て、私は地球儀を脇の紙袋から取り出した。

「先生、先生はあれだけ地球物理のことを調べられたのですから、せっかく得られたその知識を、そのままにしておくのはもったいないですよ。もう少し先を続けられて……」

「いやあ、君ねえ、小説家が調べるなんていうのは、たいしたことではないよ。付け焼刃でねえ。小説に必要なものを調べるだけでしかない」

 後になって私は、話のもっていき方を間違えた、と反省した。海洋底がはっきりと見えるその地球儀の特長をずばっと切り出し、それで興味を引いてもらえるようにすべきだった、と思う。特長に対する説明がなしでは、私が清張氏に送った地球儀は単なる地球儀の一つに過ぎず、書庫にしまわれてしまっただけ、だったかもしれない。

 しかしあるいはあの時点で、如何に地球に対する興味を引こうとも、それは無理であったとも考えられる。小説の中の、「白川の説明を長々と聞いてきたが、正直なところ半分もわかっていなかった」という庄吉の言葉は、慣れない科学の分野の学説を、まとめるために苦労したことの述懐であったろう。自然科学の話はもうたくさんだ、と思われていたかもしれない。うがった見方をすれば、他の女性たちを三人も連れてきたのは、話が地球のことばかりにならないための、布石であった可能性もある。

 私はすぐにあきらめた。そして、ワイフに頼まれた書のことを口にしてみた。「一字だけ、お好きな字を書いていただけないでしょうか?」

 色紙と筆を差し出すと、

「いや、そういうのには書かない」

 と断られた。ああ、これで全て終わったんだな、と納得した。

 帰りはタクシーが呼ばれ、方面が同じだった藤井氏と相乗りになり、渋谷まで送っていただいた。車中、文藝春秋の担当編集者として、昭和史について如何に苦労して取材したか、などの話を聞いた。初対面で、これだけ打ち解けた話が聞けるのは、清張先生に扱われたせいか、と思った。清張氏が私と私の説を扱ってくれたことは、いわば、清張氏の紹介状を得たようなものでもある。

2011年12月21日 (水)

清張氏の、守られた約束 その39

  料亭の上座を譲られる

 日本に着いた日の翌日、昼間のうちに有名文房具店に寄り、色紙と筆、墨汁を買った。ワイフに頼まれていたのである。「他に何も要らないから、先生の書が欲しい」と言われていた。

 その後で、約束の料亭の下見に出かけた。まず、駅から料亭まで歩き、それからその界隈を散策した。赤坂の福田屋は、南部坂の脇にあった。坂の名前の由来が石塔に彫り込んである。それを読んだりの後、近くの氷川神社まで歩いた。広い境内に人影はなく、清浄な気配が漂っていた。

 約束の日の夕方、6時前には福田屋の玄関に入り、二階の部屋に通された。六畳間の落ち着いた部屋であった。ふすまを開けた近くの隅で、私は待った。直径30センチの地球儀を入れた大きな買い物袋を脇に置き、ラクダ色の派手な三つ揃えに身を包んだ私はかしこまっていた。この前は腕まくりしたワイシャツ姿だったし、小説の中の白川保雄が汚れた身なりだったので、料亭でとあれば、格好をつけてみたかった。以前、サンフランシスコのホテルのフロントで白人が着ているのを見かけ、自分でも着てみたくなった。歌謡ショーのステージで着たことはあるが、当時の日本では場違いだったかもしれない。

「今日は、こんな素晴しい所にお招きいただき、ありがとうございます。静かな所といっても、こういう所のつもりではなかったのですが……」

 ふすまの外で人声がしたのに合わせ、畳みの上で正座し直した私は、入ってきた清張氏に深々とお辞儀した。

「いやいや、遠い所をよく来てくれました。……さあさあ,君はあすこへ座りたまえ」

 入口の襖のならびにある、床の間の前を指し示した。いくら日本での社会経験のない私にも、そこが上座であるのは分かっている。

「いえ先生、もったいないことで。そちらは先生が……」

「今日の主賓は君なのだ。さあさあ」

 あまり固辞しても、と床の間の前の座布団に座ったものの、しばらくは足が崩せない。

 清張氏の後ろから三人の女性が入り、それぞれの座布団にすわった。私の対面に清張氏が、氏の右隣には見知らぬ若い女性が座った。英国への留学生らしい、と会話の具合で知れた。その隣には林さんが座った。私の隣には、後年、松本清張記念館館長になった文藝春秋社の藤井康栄氏が座った。

 会話は主に、清張氏と私、そして時に清張氏と留学生との間で交わされ、女性同士で交わされることはほとんどなかった。

「馬丁(ばてい)が使う汚い言葉で、何か適当なのはないかね? 英国では、階級によって使う言葉にかなりの違いがあるはずだ。言葉を聞いただけで、馬丁かバトラー(執事)かが分かる、とも言われている。そのあたりのことを調べておいて欲しい」

 清張氏が、その留学生に頼んだ。

 私は、バトラー付きの豪邸を、仕事口として持っていたことがある。頬まで続くもみ上げが白く、適当に禿げていて恰幅がよかった。まるで、映画に出てくるバトラーそのものである。言葉も、「今日は」が「ゴッド・ダアイ」という感じの訛りをもち、初めの頃は、ほとんど聞き取れなかった。まさに「マイ・フェア・レディ」に出てくる英語そのものである。おそらくは、そうした言葉遣いもバトラーとしての値打ちに入っていたのだろう。アメリカの金持ちにとり、イギリス出身のバトラーにかしずかれてのデナーは、それだけでも大きな贅沢だったにちがいない。

 その留学生は、イギリスの有名大学から大学院へ進んだ才媛で、理知的な美人であった。

「私は、頭はいいんです」

 という言葉が彼女の口から出たときには、子供や夫を手放しで褒めるアメリカでも、そこまであからさまではないだろうに、と思って聞き耳を立てた。しかし、それは手相の話だった。

 彼らの間で会話が交わされている間は、料亭の料理を味わえた。さすがに、運ばれてくるどの皿の料理も、絶品であった。最後に出てきたメロンの、空洞の小ささに感心したりもした。

 アワビというのは硬いものだ、という思い込みがあったので、軟らかく煮込まれたアワビを初めて食べて驚いた。仲居さんにそう言うと、

「ええ。うちのお客様は、歯の弱い方が多いですから……」

 それはそうだ。こういう所で食べられるのは、たいてい、年をとった金持ちなのだろう。答え方が面白い、と思った。

2011年12月17日 (土)

清張氏の、守られた約束 その38

  ワイフがトラックを運転することに

 12月も押し詰まったある日のこと、道路わきの病院の駐車場でランチを食べていた。いつもながらに、私はトラックの運転席で食事していた。二人のメキシカンのヘルパーは、庭のそこここに別れて坐っていたはずである。彼らはお互い同士、あまり仲がよくない。

 バックミラーの中を素早く移動する人影に気づき、私は外を見た。運転もできる小柄なルイスが、必死の形相で駆けていく。一体何事かと降り立った私の後方に、別の靴音が聞こえた。ベトナム人だろうか、東南アジア系の男がピストルを片手に、ルイスを追いかけている。建物の反対側から来たもう一人の移民官に挟まれ、ルイスは手を挙げた。

 私のもう一人のヘルパー、ホセは痩せて猫背で、無精ひげを生やしていることが多く、いつも空咳をしていた。そのため、健康なのに病み上がりであるかのように見えた。彼は既に捕まっていて、手錠をかけられていた。

 通りの激しい道の脇で、姿をさらしていた我々の方が無防備であったかもしれない。大きなヴァンで通りがかった移民官たちが、我々を見かけて捕まえる気になったのであろう。当時は、雇い主に累が及ぶことはなく、移民官の一人は、私に笑いかけてもきた。思わぬ収穫に機嫌がよかったみたいである。

 二人が護送車に乗り込むとき、ルイスが「弁当箱をワイフに届けてくれ」と私に頼んだ。彼には12年ほど前に結婚したばかりのワイフと、まだ誕生日を迎えていない乳飲み子がいた。

 おかげで、別のヘルパーを急遽探したり、仕事もできないくせに高過ぎる、とすぐにくびにして一人で働いたり、暮れの忙しい時期をあわただしく過ごすことになった。

 一週間も経たないある夕方、三人のメキシカンがうちの玄関に来た。やせて貧相なホセの脇に、目つきの鋭い屈強な男が二人、両脇を固めるかのように立っていた。越境請負人、コヨーテ(山犬の意)である。職業で、同じ人種とは思えないほどに顔つきが違う。ホセへの給料の未払い分を渡すと、彼はその中からすぐに、請負い料を、コヨーテの一人に渡した。いくらだったか憶えてはいないが、コヨーテの手間の割りには安いな、と思った記憶がある。国境の町からかなり離れている(東京から広島ほどもある)のに、二人の付け馬が送ってくれている。その分を勘定に入れてないみたいだ。

 それからまもなく、ルイスも帰ってきた。彼らにとって国境など、大きな障害ではないようであった。

 もともと、金を稼ぐよりは書いたり調べたりするほうが重要だ、と考えていた私は、朝早くから夜遅くまで働かなくてはならないほど、仕事口を一杯にしたことはない。私が清張氏に会いに日本に行ったとしても、ヘルパー二人だけで充分やっていけるはずであった。ところが2月に入り、問題が生じた。移民官ではなく警察官が、ルイスの家を頻繁に訪れるようになったのである。

 彼はまだ独身の頃、酒気帯び運転で捕まり、罰金を払わずにメキシコに逃げてしまったことがある。そのレコードが残っていたようで、今回移民局に捕まったことから、現住所が地元警察に通じたのだと思われる。

 独身だった昔と違って、逃げ回るのに身軽ではない。ついに警察に捕まり、留置所に入れられ、6ヶ月以上外に出ることはなかった。私も留置場を訪れ、作業着のような囚人服に着替えさせられた彼と面会した。よく漫画などにあるような横縞のつなぎの服、ではなかった。

 私が初めて雇ったメキシカンは、アレハンドロ(アレキサンダー)という名の通りに、エネルギッシュな男だった。仕事をやらせれば、力仕事もバリバリやるし速い。きれいな女を見かければ、口説く。夜は仲間と飲みに行って、喧嘩もよくやっていたらしい。稼いだ金をメキシコに送って牛を買い、叔父に管理させてもいた。雇っている私より金持ちなのは間違いなかった。私は彼からガーデナーの仕事のやり方を覚え、彼との会話からスペイン語を覚えた。

 16~7才のルイスを連れてきたのも、彼であった。その当時も仕事口が充分にあったわけではないのに、笑顔が可愛い、純真そうな男だったこともあり、雇うことにした。いくらぐらい払ったらいいだろう? とアレハンドロに相談したら、ずいぶん安い値段を言った。少しづつ値上げはしたものの、アレハンドロの手前もあり、そう大きくは上げられなかった。私は、アレハンドロに言えない分、仕事のやり方についての細々した指図を、ルイスには言った。給料が安い上に文句ばかり多くては、たまらなかったに違いない。次第に笑顔が消えていった。

 ある時、客の庭の植え込みに生えているポイズン・オーク(ウルシの一種)を退治していた。何度か痒い思いをしたことのある私は、慎重に大きな枝切り鋏で少しづつ切って、鋏の刃先で挟んで移し、傍らに重ねた。それを見てまだるっこしいと思ったのだろう、ルイスが制止も聞かず、枝を束にして、トラックに運んだ。数日後、全身がかぶれた。半年近く、体をぼりぼり掻いた。多分、夜もよく寝られなかったにちがいない。

 それからは性格が変わった。やがて私のところを辞め、再び戻ってきたときには免許証を持っていた。不法移民の彼らがどのようにして免許を取得できるのか分からないが、持っているとなれば、運転を任せられるのでありがたい。邦字紙のための取材など、平日の昼でもできるようになった。

 留置所で面会したとき、ルイスの背後に同じ囚人服を着た男たちの姿を見た。ルイスとは違い、見るからに犯罪者、という厳しい顔つきをしていた。確かに、罰金を払わずに逃げたことは悪い。しかし、今まで常習の犯罪者でもなかったルイスが、これからは違う社会で、こうした男たちとの付き合いに明け暮れるのかと思うと、胸が痛んだ。純真だった笑顔の若者の一生を傷つけてしまった、私もその一因となってしまった、と思うと辛かった。

 清張氏と再び会えるのに、日本行きをキャンセルするわけには行かない。考え抜いたあげく、ワイフにトラックを運転させ、ホセに仕事させることにした。怖がりでもあるワイフに、それまで仕事のトラックを運転させたことはないのだが、賭けだ、と思った。

2011年12月13日 (火)

清張氏の、守られた約束 その37

  日本にそういう地球儀はない

 清張氏に地球儀を送ったのは、海底の地形を見て、その不思議さを感じてもらいたかったからである。ヤスーンの落下を茶碗の釉に結びつけた氏ならば、私も気づかないような、斬新なアイデアを思いつかれるかもしれない。その上で、学説に対する上述のような数々の疑問を聞かれたならば、面白い会話が交わせるかもしれない。そう期待したのである。

 偶然にもその頃、指揮者の岩城宏之氏が週刊朝日に連載しているコラムから、当時の日本では、そういう地球儀を買えないと知った。宇宙から見る本当の地球の姿を、知りたいということだった。私は、実費で送ってもいいが、という手紙を書いて出した。

 サンフランシスコの博物館には、同様な形式の、直径5メートルはありそうな巨大な地球儀が当時はあったし、別にとりわけ希少なもの、という感覚で捉えてはいなかった。しかしそのコラムのおかげで、日本にはないということを、実にいいタイミングで知れたものだと思った。私は清張氏、岩城氏の他に、義弟の所にも送った。3月に帰国したらその地球儀を持って、科学雑誌社などを訪れるつもりであった。

 そうして準備をしていたところへ、清張氏も私と話したい、と言ってきたわけである。まさに、渡りに船、であった。私はさっそく、3月に帰るのでお会いしたいが、この前のようなレストランでは他の客の動きなどもあるので、先生のお宅へお伺いするわけにはいかないだろうか? と書き送った。ただでさえ目立つ清張氏に対し、大きな地球儀を持ち出して説明するとしたら、好奇の対象になりそうであった。もっとも後から考えたら、そういう形ででも世間に知られた方が、かえって良かったかも知れない。

 その返事は、霧プロの林さんを通して返ってきた。自分の家では都合が悪いので、予定していたレストランを変更し、料亭で私と会う、ということであった。政治家たちが密談に使ったりすることもある所らしく、ゆっくり話せるという。

 小説が出て以来全てが上向きになっていくように思われたが、私の人生、そうそううまくはいかないようにできている。良い糸と悪い糸とが、より合わさっているかのようである。

2011年12月 9日 (金)

清張氏の、守られた約束 その36

  エスカレーター状の下降などない

 現在最も有力な学説、プレート・テクトニクス説によれば、中央海嶺で湧き出した対流は、板状のまま水平移動したあと海溝で沈み込む、とされる。板状のまま水平移動できる対流って、いったいどのようなものであろうか? 実験的に作り出せるであろうか? しかもそのプレートは、太平洋中央において方向転換した、ということにもなっている。そんな勝手な対流など、自然界にあるわけはない。

 また、海溝において沈み込むときに、プレートはまるでエスカレーターのように、斜めに下降していく。徐々に冷えて重たくなっていくので、当然に思えるがそうではない。

 たとえばバネを作るとき、棒状のワイアを突き出しながら一点で曲げる。突き出すのと曲げるのとを同調すると、バネになる。つまり、一度下降域で下方に曲げられたプレートは、そのままの状態ではバネ状になってしまうはずなのだ。エスカレーター状にするためには、曲げ戻す工程が加わらなければならない。この曲げ戻しは、「プレート・テクトニクス」(上田誠也著、1989年、岩波書店刊)において、unbendという言葉で出てくる。

[このことは沈み込みにあたって、下向きに曲げられたプレートが平らになる(unbend )ことをしめすものと考えられる。なぜunbendするのかについての確定的な説明は未だしの感があるが、……]

 とあり、その後に難しい説明が続く。その説明は別としてただはっきりしているのは、地球上では下降するプレートに重力が働く、という点である。そのために曲げ戻されたからといって、バネのように丸く、曲げられた元の地点近くに戻れるわけではない。先端が下垂してゾウの鼻のように、ぶらーんとするはずである。対流の下降域においてエスカレーター状に下降するというのは、あまりにも不自然すぎる考え方である。

 一般的な対流渦の場合上昇点は中央部にあり、周りを線形の下降域がとりまく。ところが実際の地球上においては、下降域としての海溝があまりにも少ない。それもまた、対流による解釈を疑わせる一因である。南極大陸やアフリカ大陸の周りには、海溝が全くない。その周りの中央海嶺から昇ってきた対流は、一体どのように沈み込めばいいのか?

 更に、太平洋をとりまく海溝を仔細に見ると、個々の海溝は陸から海へと張り出した弧状をしている。もしも海溝が対流に関係した何かであるのならば、海から陸へと張り出しているはずである。

2011年12月 5日 (月)

清張氏の、守られた約束 その35

  中央海嶺は金太郎飴か?

 人が本に描く図は、当然ながら二次元である。図の中央から上昇流があがり、地表に達して左右に分かれ、二つの対称な円を描いて下降する。熱対流の模式図を示す、この図自体に何の間違いもない。問題はその先である。人は、この図と同じものを何枚も重ねてもいいのだ、と暗黙のうちに考えがちである。 

 つまり、大西洋中央海嶺のような南北に長く続く図を見たとき、東西の断面図をどの地点で切り取ったとしても、ホームズの対流図のようになっている、と無意識に思ってしまうものなのだ。

 しかし、「熱対流とは?」という基本から考えていくと、熱源が直線状に並んでいるなどということはありえない。対流図がある点において、ホームズの描いた通りだったとしても、それが金太郎飴のように、ずーっと同形で重なっていることを意味するわけではない。

 熱対流が作るはずの形は、熱源から、原爆のきのこ雲のような円筒状の上昇流となり、地表もしくは海底面までのぼった後、開いた傘状に拡散し、放熱した後、冷却して下降する、というものである。ところが、傘を上から見た形、もしくは全方向への放射状の拡散なるものは、中央海嶺上のどこを探してもない。

 これは、中央海嶺を対流の湧き出し口、と考えた解釈そのものに問題があるのだ。たとえ、熱流量が高いとか、地震が活発だとかという、その他の条件が如何に多かろうとも、熱対流本来の形をしていなかったなら、それは熱対流ではない。金太郎飴型の対流があり得るならば、実験により示されなければならない。

 ローレンス・コーリンズ地質学名誉教授(カリフォルニア州立カレッジ、ノースリッジ校)から貰ったPhysical Geology (Charles C. Plummer, 1979, 5th ed.-1991, Wm. C. Brown Co.) という教科書に、面白いイラストがついていた。地獄の鬼が、ガスバーナーを開けて、大西洋両岸の大陸を分離している図、である。もちろん現実のマントル内に、人工のガスバーナーなどあるはずもないのだから、火元が直線状に並ぶ、こんな熱源など考えられない。

 したがってこれは、大陸移動説を支持する図というよりは、反証する図と言うべきかも知れない。むしろ、大陸がそんな形で分離するわけはない、という問題点をはっきりさせるのに良い図である。

 大西洋中央海嶺に存在している中軸谷は、インド洋、東太平洋においては消えている。そのため、海嶺とは区別して、海丘、海膨と呼ばれることもある。大西洋中央海嶺に中軸谷があるのは、裂けている現場だからだ、と考えられたわけだが、世界の中央海嶺の、ほぼ半分ぐらいにそれがないとすれば、その解釈は当たらない。

 また、大西洋においては、海洋のほぼ中央に海嶺が位置しているので、熱対流の例としてふさわしいと考えられたわけだが、それは、たまたまの偶然に過ぎない。他の海洋において中央にあることはないし、両岸の大陸の海岸線と相似であることもない。

 インド洋において、中央海嶺の北東をたどると、ヒマラヤからジャワへの線に相似であるように見える。不思議なのは、インドとオーストラリアとがその両者の間にあるのに、それらはまったく無関係のようでもある。しかも、インド洋中央海嶺の南には南極大陸があるが、それと中央海嶺の形とは、ほとんどの部分において、まったく似ていない。東太平洋中央海嶺の場合にも、その東側だけが大陸の形に相似であるにすぎず、太平洋の中央にあるわけでもない。

 つまり、うまい具合に大洋の中央にあるのは大西洋だけであって、説に都合のよいその一例を例証として用い、他を黙殺しているに過ぎない。

 しかも東太平洋中央海嶺において、西向きの対流は太平洋を延々と横断するというのに、東向きの対流は、さほど行かないうちに、沈み込み口としての海溝に遭遇する。

 対流実験によれば、対流の渦の、横向きの長さと深さとの間には、ほぼ1対1の相関関係がある。太平洋全域を横断するほど長い対流渦には、それに見合うだけの深さがなければならない。ところが、反対側へは非常に短い。とすると、その対流渦の熱源はどちらを反映した深さにある、ということになるのか?

2011年12月 1日 (木)

清張氏の、守られた約束 その34

  海底地形をはっきり示す地球儀

 この手紙に出てくる地球儀とは、ナショナル・ジオグラフィック社製のものであった。この地球儀のコピイ・ライトは、1979年になっている。世界の国境線がなく、山脈などが立体的に描かれている地勢図であるのは珍しくないが、海底の起伏が生き生きと描かれているのは、この時代としては珍しい。

 ブルース・ヒーゼンとマリー・サープは、1956年に北大西洋の海底地図を出版した。ヒーゼンが観測船に乗り、音響測深で集めてきたデータを、サープが図として描いた。当時は海軍の規制があり、水深の分かる詳細な地図を公表することはできなかったので、絵図として作成した。ところが、これがかえって評判を呼び、南大西洋、インド洋と続編を出し、1977年には、世界の海底図が完成した。清張氏に送った地球儀は、この海底図が基になっている。

 インド洋あたりからは、ナショナル・ジオグラフィック社も参加し、アルプスの山岳画などもこなしたことのある風景画家に絵図を依頼した。そのおかげで、より生き生きとした海底図となった。雲と海水と氷、つまりH2 O を全部除いた地球の姿が、実際よりもはるかに示唆に富む形で見えることになった。

 1967年にアイデアを得てすぐに、デパートに行って買ったのは、レプローグ社製の地球儀だった。地形が一番はっきりしていたので選んだが、当時から既にして、中央海嶺の姿が薄ぼんやりとながら描かれていた。たいしたものである。私はその形を見ながら、ああでもない、こうでもないと、ヤスーンが着地した後の展開を想像した。

 大西洋中央海嶺というのは、実に奇妙な形をしている。地上のどのような山脈とも違う。仮に、麓から山頂に向かって登ったとすると、何回も何回も小山を登り、ノコギリの刃の上を辿るような上り下りを、繰り返さなければならない。頂上に達したとき、その先にも大きな谷が、同じような高さの、もう一つの頂上との間に横たわっているのを見る。その大きな谷は、中軸谷と呼ばれる。断面図からすると、山頂において、今まさに、東西に引き裂かれているかのように見える。

 初めてサープが、その図を解説しながらヒーゼンに示したとき、“ガール・トークだとして、相手にされなかった。つまり、大西洋が中央で東西に裂けているという解釈を、女の子特有の空想話だ、とヒーゼンは考えたのだろう。彼らの上司である、コロンビア大学ラモント地質学研究所のモーリス・ユーイング所長も、当時は、大陸移動説に反対だった。

 しかし同じ頃、地震の発生源はその中軸谷に集中している、そこでの地殻熱流量が大きい、などの発見が相次いだ。その結果として、中央海嶺こそは大陸を分離した基点なのだ、と考えられるようになっていった。

 “Seeing is Believing” という諺がある。「見れば信じられる」とか、「百聞は一見にしかず」という意味だろう。この諺の意味する通り、図の力は大きい。これほどにもはっきりした海底地形図を示されては、大陸移動に対する反対論は、黙らざるを得なかった。この図はまさに、アーサー・ホームズが彼の挿絵に描いていた、マントル対流の姿そのものであったからである。

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