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2011年11月

2011年11月27日 (日)

清張氏の、守られた約束 その33

  第3章 清張氏と料亭で再会

  不備な点は出版時に直す

 1983年12月は、忙しい月であった。文芸春秋誌に「南半球の倒三角」が出た後、投書を書き、礼状を書き、そして翌春の3月頃には日本へ行こう、と計画を立てた。年が明けて間もない頃、清張氏からの、直筆の手紙を受け取った。氏もまた、私と話したいと言う。踊り出さんばかりの喜びであった。

[明けましておめでとう存じます。今年もよろしく願います。昨年は立派な地球儀や果物をご恵送頂き拝謝いたします。お礼がおくれて申しわけありません。

 さて、拙作「南半球の倒三角」(「文藝春秋」二回連載)のこと、あなたのお話と、御高著「失われた月による大陸起源説」とにひかれて書きましたが、この小説の語らんとするところは、外国の学説ばかりを紹介して自分ではなんら創造的な意見を学界に提出せず、それが「アマチュア」の名なるが故にその新説には一顧もしないのみならず、これを嘲笑するかの如き日本の学者の尊大なる態度と、自説を真剣に信じる主人公との対比にあります。

 これを書くに当り、岩波新書二冊、NHKブックス一冊を手がかりにしたのですが、なにしろにわか勉強のことと、枚数に制限(学説史の紹介は実質的に三十数枚)があるのとで、不備な点が多いと思います。出版に当り直します。

 たとえば貴説について「月が二つあった」というところなど。「火星には月が二つ、木星や土星には各々十数個、太陽系全部では三十七、八個あり、地球にも曾って月が二個あった」というふうに訂正します。プレート・テクトニクスも諸書に出ていましたが、あまり長くなるので割愛したのが、かえって不可だったと思います。これも次の出版に入れます。

 それよりも、序文のあなたの文章がよく、本人の気持、情景描写が過不足なく出ています。これを借りたことで、拙作に生彩が出てきたと思います。拝謝いたします。

 南半球が先端で尖った状態になっているのはパンゲアのときからそうなっており、いわゆるゴンドワナ大陸ではそれがますます著しくなっていることから茶碗にかけられた釉にたとえてみたのです。またインドのコモリン岬からきた青年とマドラス海岸で遇ったという設定にしたのも、この小説を書く前にインド旅行をしたときの思出につないだのです。

 近ごろ緑内障にかかり、執筆が思うようにすすみません。

 こんど日本に帰られたときに、ゆっくりとお話を拝聴したいと思います。

 御元気に御奮闘ねがいます。

  昭和五十九年一月二日

                                                                       松本清張]

2011年11月23日 (水)

清張氏の、守られた約束 その32

  竜神を彼の上に想像

 白川保雄が語る説は、清張氏がどのように私の説を捉えたか、を示しているわけだが、慣れない分野のことだけに、非常に難しく思われたようである。この後、次のような文章が出てきて、全体をしめくくる。

[庄吉は、白川の説明を長々と聞いてきたが、正直なところ半分もわかっていなかった。ただ、月が天から地球に落ちてきたという話を聞くと、さきほど見たここマハーバリプラムの摩崖彫刻——海岸寺院と対(むか)い合うように北一キロ半のところにある花崗岩の断崖に刻まれたリリーフ群の中央「ガンジス河が天から降る」図を連想した。それほど白川保雄の月落下説は庄吉に浪漫的に聞こえた。

「しかし、ぼくは自説を守り、これを発展させますよ」]

[白川保雄は、口に出すのを躊(ためら)うかのようにしていたが、ひと呼吸すると、ついに云った。

「ぼくのタイプ原稿を見もしないで、話を聞いただけでぼくを追い返した日本の学者たちは、外国の諸説を紹介するだけであって、じぶんたちはなに一つ創造的な仮説を世界の学会に提出していません。日本の学界は慎重だといいますが、それを裏返すと、クリエイティブなものが欠如していることですよ。そう思うと事大主義の尊大ぶった彼らを軽蔑したくもなります」

「ガンジスの落下」の大洪水に立つ多頭コブラを背負った竜神(ナーガ)を庄吉は彼の上に想像した。

「ぼくは頑張ります。たとえどのような扱いをうけようと、ヨガの苦行を続けます。あそこに太陽と砂とに煎(い)られて、じっと坐っている乞食のヨガのように」

 カリフォルニアから来た白川保雄は、乞食のすわっている方角へここから手を挙げた。]

 何とも美しい文章である。私への応援のつもりがあったのかもしれない。がそれにしても、「多頭コブラを背負った竜神を彼の上に想像した」などとは、勿体ないほどである。

「涯ない海から横一線になって押し寄せる白い波頭を背景にした黒檀の木彫りのような乞食の姿は、岩礁上のヒンドゥー教寺院を横に入れて、画になる構図であった」

 と、単なる情景描写かと思われていた乞食が再び登場し、白川保雄の決意に結び付けられた終末も、さすがにうまい、と思う。

 私は、これを機にもう一度日本へ行こう、と思った。当時の私は、何としても、学者と誌上で対決したかった。金森教授に対しては、うまうまと言い抜けられている、という思いが強い。怒らせては、という遠慮もある。日本の有名学者と公の場で、一戦交えることができるならば容赦なく突っ込めるのだが、と思った。清張氏に司会を頼めるならばもっと面白くなる、とも思った。

2011年11月19日 (土)

清張氏の、守られた約束 その31

  「風雪断碑」の妻

 たまたま、私自身も渡米2年後に、一生をかけるべき目標を得た。では、何によって生活を支えるか? 私自身は実社会を知らず、生活能力のない、かたわとして育ってしまった。言ってみれば、“元祖フリーター”というところだろうか。当時の私は、私設体育館のジャニター(掃除夫)をしていたが、当然、それで家族を養えるほどの収入はない。手に技術を持たなければ、というので美容学校に通ったりもした。ところが、もともと好きな道でもない。失敗の連続だった。次第に、客の髪に触っているだけで、冷や汗がだらだら流れるようになり、断念せざるを得なくなった。

 ガーデナーになって、失敗がなくなったわけではない。始めてまだ一年も経たない頃、重たいチェインソーを抱えたまま、はしごから落ちた。一応足から落ちはしたのだが、重量のせいもあり、足首の骨に縦にひびが入った。そのため、やっと2ヵ月後ぐらいに仕事に戻っても、助手が必要だった。密入国者と知りつつも、メキシコ人を雇わなければならなかったのは、最初にそういう体制ができたからでもある。

 しかしガーデナーという仕事自体、嫌いではなかった。少しぐらい生垣や芝生を刈り込み過ぎても、女性の髪の場合とは違い、直接的な文句は返ってこない。そして働きさえしたら、貧しくとも生活はできた。日系人ガーデナーによる前の時代からの評判のおかげで、私みたいな者でも何とか仕事口を得られる、良い時代であった。

 私とすれば、貯えのない、手から口への生活であっても、ともかくも生活できている以上は、男としての責任は果している、と思っていた。時間があれば、地球のことを調べたり、考えたりするのは当然だ、とも考えていた。サンフランシスコで出会った画家たちよりはよくやっている、と自分では思っていた。

 ところが、清張氏の小説にある「家内もぼくの意志に賛成し、援助してくれました」という挿入文の意味を考えているうちに、外からの目、に思い当たった。画家たちよりはまし、というのは私の独りよがりであって、世間から見たら、金にもならないことのためにうつつを抜かす男の妻は、さぞかし苦労しているにちがいない、と思うのだろう。

 「君、稼がなきゃあ駄目だよ」の言葉と思い合わせ、唐突な挿入文の意味が、理解できたと思った。「風雪断碑」の妻は、木村卓治をフランスに留学させるために工面し、彼よりも数ヶ月前に、同じ肺病で死んでいる。薄倖の典型のような女性である。清張氏のイメージの中で、私のワイフが彼女と重なったのかもしれない。

 そう思い付いて以降、私のワイフに対する見方が変わった。それにより、彼女が気付く程の変化をもたらしたかどうかはわからない。

2011年11月15日 (火)

清張氏の、守られた約束 その30

  夢追い人である男の責任

 というように、ずいぶんと長く引用されたのにもかかわらず、たった一ヵ所、私の本にはない文章が付け加えられていた。「家内もぼくの意志に賛成し、援助してくれました」という箇所である。

 その前にも後にも、白川保雄に家内がいるか独身であるか一切記述がないのに、ここに来てたった一行だけ唐突に、家内が出てくる。一体何故なのだろうか? 私はずいぶんと、頭を悩ますことになった。

 車屋でご馳走になったときの別れ際に、「君、稼がなきゃあ駄目だよ」と言われたとは、既に書いた通りである。が、それについては一年半待っていた間に、私なりの解答は得られていた。その間に、「半生の記」他、清張氏についての本をずいぶん読んだからである。それらによれば、清張氏のお父上は夢追い人であり、そのおかげで、時にはほったらかしにされた母子がずいぶんと苦労されたようである。それが反面教師となり、男は家族を守る責任がある、という強い信念を持つようになった、と推察する。そしてその信念に基づいて、「稼ぎなさい」の忠告になったのだろう。

 私はたまたま1960年代後半のサンフランシスコで、売れない画家たちと付き合っていた。まだヒッピーが生まれる直前で、髭ぼうぼう、汚い格好で闊歩する彼らは、ビートニクと呼ばれていた。中には、日本にいるワイフから仕送りさせて、絵を描きまくっている者もいた。自分に鞭打ち、懸命に製作に励む彼の姿に感銘はしたものの、ワイフからの仕送りで、という部分には疑問を持った。

 所詮男は、生物学的には出来損ないである。新しいことに挑戦し続けるのは、雄としての男にとって至極自然なことである。挑戦はまた失敗をもたらし易いが、男の挫折は、種の存続にとって失われるものが少ない。つまり、あるタイプの男たちは、一生夢を追い続けることを運命付けられているのだ。当時の私は、画家たちの姿を見てそんな風に考えていた。しかし家族を持ったならば、男が最低限の生活を守らなければならない。夢を追うのはあくまでも、その最低限の責任を果した上でのことでなければならない。

2011年11月11日 (金)

清張氏の、守られた約束 その29

  「ヤスー」の序文からの引用

 さて、白川の解説は更に続く。ひとしきり、地殻の形成などについての解説をとうとうと述べた後、何故大陸の先端が南に細くなっているのか、備前焼の茶碗を手にして説明する。その後、学者に聞いてもらったかと庄吉に尋ねられる。その学者とは、自費出版の本「ヤスー」を書いた時点までの学者であり、その後の学者たちは含まれない。

[「この仮説に決着をつけることは、ぼくの人生にとって、それだけの意味があると判断したのです。なによりもぼくはあせっていました。素人のぼくが偶然に、他の専門家よりも早く発見したとしても、まさか十年も二十年も進んでいるわけはない。やがて彼らも同じアイデアに気づくようになるだろう。そうなってからでは遅すぎる。その後で、『最近の新学説に、かってもう一つの月があり、その落下によって地球の大陸ができた、というのがあるけれど、あれと同じアイデアを自分も数年前に気づいていたんだ』と友だちや知人にぼくが語り歩いたとしても、だれが本気にとりあってくれるだろう、とそういう不安にも駆られたのです。

 ぼくは、二、三ヵ月後に日本へ帰りました。家内もぼくの意志に賛成し、援助してくれました。科学者みんなに聞いてもらうためには、雑誌でとりあげてもらおうと思い、かねての愛読誌の或る月刊科学誌の編集長に会いました。あらかじめ簡単な手紙を出してあったので部屋に通されました」

「で、どうだった?」

「編集長は、じぶんのところの雑誌は一般の読者を相手に通俗科学の解説をおこなっているので、まだ学界にも認められていないような先端的な理論を扱うわけにはゆかない。上野の科学博物館へ行って私の名を云えば会ってくれるはずだから、そこの地学専門の者に読んでもらってはどうか、と云いました。

 博物館に行き用件を話すと、それならどこそこの部屋に行きなさいと、二、三度まわされた後、一番裏手にある建物の、若手の研究員が会ってくれました。部屋の中には小さな机があり、吸殻のつまった灰皿と英和の小辞典と、二千ページ以上もありそうな部厚い原書とが半分くらいのところで開かれて置いてありました。この部屋の主は、終日こうして原書を読みつづけるのだろうかと思っていると、彼はぼくのタイプ印刷の原稿を手に、かなりの速度で眼を動かしてゆきました。その速度と、彼の表情からぼくは彼の心の中を理解しました。彼はいかにもしゃべるのが億劫だというような話しぶりで、『科学の世界では、死後になってやっと認められたとか、死んで百年もたってから論文が偶然に発見され、認められるようになったとかいう話はいくらでもある、専門の学者の論文ですらそうだ。まあ少なくとも、論文が専門家の間で認められやすい形をしていなければダメだろうね。単なるアイデアではなく、数学的にも納得のいくようなものでなければ、むつかしいと思う』と云いました」

「うむ」

「ぼくは太陽系についての読み物を連載していた科学者の名前を思い出し、さきほどの雑誌社に電話しました。太陽系の成因を書くときに、その人の読み物がずいぶんと参考になったからです。彼の電話番号を聞き、さっそくに電話してみると、ぼくにとってありがたいことに、その天文学者は、彼の職場だった天文台からすでに引退していたので、快く数日後に会う約束をしてくれました。

 その日は雨でした。郊外にある彼の家を訪れ、部屋に通されました。彼もまた編集長と同様、ぼくの原稿を手にしようとはしませんでした。ぼくが口で云うのを一通り聞いた後、『私は地学のほうは専門ではないので、それに関するところは何とも云えないが、どんなものでしょうかねえ。月は地球に落ちるどころか、だんだん遠ざかっていくというのが、定説になっているのですが……。あなたのような立場の人が、自説を発表するとしたら、まず地学会の会員になり、年に二回例会がありますから、その時になさることですね。そのかわり、もっと数多くの文献にあたる必要がありますよ』と云いました。

 彼の話は親切ではあったが、実りのあるものとは思えませんでした。またぼくが半年も日本に滞在することは、経済的にも不可能でした。またかりに学会で発表できたとしても、よい結果が得られるとは、とても思えなくなっていました。一ヶ月の滞在予定が過ぎる前に、ぼくは地球の歴史についての著者の名前を二、三思い浮べましたが、もはや彼らにあたってみる気力はなくなりました。現役の学者で、有名であればあるほど、忙しくてとても会ってはくれないだろう、そう思うとぼくはじぶんが無名であることの無力を感じました」

「………」

「カリフォルニアに帰ってから、こんどはガモフに手紙を書いてみる気になりました。想像力豊かな彼ならば、『もう一つの月があって、その落下により大陸が生まれた』とそれだけ聞いても、ことの重要性を悟ってくれるかもしれないと思いました。ぼくは辞書をひきひき、短い手紙を書いて出しました。一カ月ほどしてペン書きのハガキが届きました。『私は忙しいというだけでなく、地球科学はわたしの専門ではない。ユーリーならばその方面に詳しいので、彼に手紙を書いてはどうだろうか』というのです。さっそくそのとおりにしました。しかし、予想どおり、その結果は似たりよったりのものでした」]

 ここまでのところは、「ヤスー」の最初の部分、「出版を決意するに至るまで」の中の文章の、言葉遣いを変えたり、会話体にしたり、などの手を加えた程度である。天文学者を訪れた日は、実際にはにわか雨程度だったのだが、ちょっとした現実味を持たせるつもりで、「その日は雨だった」と書き入れておいたのだが、そんな不必要な文章までそっくり引用してあった。

2011年11月 7日 (月)

清張氏の、守られた約束 その28

  超新星爆発の脇を太陽が通った

 哲学者カントは、若い頃に太陽系生成説を考えた。当時、銀河系外ギャラクシーが発見された頃で、彼はそれらが別の太陽系なのだと思った。そこで、太陽系も巨大なガス(気体)球が収縮するうちに回転を始め、円盤状になり、その中心に太陽が生まれた。そしてその周りの円盤は、幾重ものリング状になり、それぞれのリングからそれぞれの惑星が生じた、というわけである。

 現代になり、隕石の集積により惑星が生まれる、と考えられるようになると、カントの「ガス球」は「隕石との混合気体」、と修正されるようになった。今では、たいていの教科書や参考書においてそう説明されている。ところが私は、この説に納得がいかない。「ガス球」というのと「隕石との混合気体」というのとは、差がないように見えるが、実際には大違いである。

 気体の場合には、収縮するガス球が回転を始め、遠心力で円盤になる、というのは納得がいく。ゴムまりや風船で分かるように、気体には反発力があるからだ。しかし、隕石の混合気体が収縮すると、そうはいかない。固体の隕石だけは分離して、重力の中心、つまり太陽のある位置に全て集まってしまうはずだ。ところが現在見られるように、太陽系の惑星は太陽に落ち込まず、その周りを公転している。一体どのようにして、太陽の強力な引力に逆らって、そのような軌道を獲得するに至ったのか? そこが一番のポイントであるはずなのに、それについては、何も説明がない。

 その点を解決するために私は、太陽と惑星とは別の起源を持つと考えた。太陽は単独で、銀河系ギャラクシー内を公転し、超新星爆発によって生じた微細な隕石の集合体、つまり、宇宙塵の巨大な塊の脇を通過した。太陽の引力というのは、太陽系のはるかな果てにある、オールトの雲(それこそは、今も残る超新星の残骸である、と私は考えている)と呼ばれる場所から、時々、彗星を引き寄せるほどに強力である。爆発してカニ座星雲(写真4)のように拡散しつつある宇宙塵を、太陽の方向へと引き寄せる(第18図)。

 ところが太陽は動いているため、宇宙塵の向かう方向は、太陽の新しい位置へと少しづつ曲げられる。太陽の移動の影響と、その結果としての、宇宙塵の曲がりとの間には、時間的なずれが生じる。そのために、引き寄せられた宇宙塵の主要部分が、太陽の元の位置に達したときには、既に、太陽はそこにいない(第19図)。

 宇宙塵をあまり頭のよくないライオン、太陽をその目の前を横切る獲物、とイメージすると、分かりやすいかもしれない。ライオンと違って宇宙塵の本体は、そのあと鋭角に曲がることはできない。結局、太陽の周りに円軌道を獲得して、土星の輪(写真5)のような、ドーナッツ状の円盤が形成される。やがてそれらは集合離散を繰り返し、次第に、惑星や衛星へと成長していく。

 宇宙塵の大部分は太陽に落下した、とも考えられる。その考え方からすれば、現在ある惑星や衛星は、ほんのわずかな生き残りであるに過ぎない。宇宙塵は隕石へと成長し、それらの中から、小さな無数の惑星が誕生する。やがて、太陽の周りを同じ方向に公転している惑星たちは、まわりの、より小さな惑星を取り込んでいく。弱肉強食の世界のようでもある、と言ったら、類比が過ぎるであろうか。こうして、ある場合には、大きな惑星をより大きくし、ある場合にはその周りを回る衛星として捕獲する。

 このような考え方からすれば、地球に複数の衛星があったことは至極当然なことであり、それらが地球に落下したのも、まったく不思議ではない。

2011年11月 3日 (木)

清張氏の、守られた約束 その27

  頭がヘンな男の発想

 こうして、既存の説の説明などをした後、白川はいよいよ自説を紹介する。

[「……これらの説が、どれも不安定であるのを知ると、ぼくはね、従来の考え方を百八十度転換して、地球の外からきた何らかの要因が加わって地殻をつくったのではないかという、いわば第三の道をさぐってみました。そうして、月が地球に落下したという仮説を得たのです」

「月が地球に落下したって?」

 唖然としてわたしは、白川の顔を見た。その白川はまた髭面の上にある細い眼をかっと見開くようにして、この店の入口前に横たわる道路の一部を見つめていた]

[「月が地球に落下したというと奇体に聞こえるかもわかりませんが」

 白川は、わたしという聞き手のおどろきを予想していたように、さっそくにその理由の解説をはじめた。これまで彼は何十人となく同じことを解説してきたにちがいないが、彼の口調にはそうした馴れというものがなく、はじめて説明するときの新鮮な情熱がこもっていた。おそらく彼はこれまでも、数十人の一人一人に、その調子で語ったにちがいなかった]

[「これはだれが聞いてもとっぴな考えです。月が二つあって、その小さいほうが地球に落ちて大陸になったというのは、頭がヘンな男の発想と思われるでしょう。けれどもこれまでの諸説にしても、そのはじめはみなとっぴな考えとして迎えられたのです。……… 先見的な理論は、始めはみなとっぴにみえるものです」]

 どうやら清張氏は、「二つの月があった」という私の発想に、非常に驚いたようである。確かに詩や文学としてなら、「二つの月」というのはあるかもしれないが、科学史の上でそのような発想があった、とは読んだこともない。あるいは、世界で初の考え方なのかもしれない。しかし私としては、そのことで「頭がヘンな男の発想」とまで思われるとは、意外であった。何故なら、私の太陽系生成説からはごく自然に、「複数の月」が導き出されるからである。三つや四つであってさえ構わなかった、と思っている。

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