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2011年10月

2011年10月30日 (日)

清張氏の、守られた約束 その26

  松本清張説(?)の出現

 というわけで、私は文藝春秋誌に投書した。1984年3月号の「三人の卓子」欄に、「“清張説に感嘆」というタイトルで掲載された。

 

[松本清張氏の短篇「南半球の倒三角」を読み、最初のうちは白川保雄の口を通して語られる学説の説明の中の誤りがしばしば目についた。しかし考えてみれば、清張氏は一年半前まで、こうした問題について全く知らなかったのである。氏の超多忙ぶりを思えば、これほどまで丹念に調べたということの方を驚くべきだろう。

 そう考えた後で読み返しているうちに「ちょっと修正しさえしたら、この清張説の方が私の説よりもかえって世に受け入れられやすいのではないか」と気がついた。私の「ヤスーン」説(清張氏の「Y–S」にあたるものをはじめ「ヤスー」YASOOと呼んでいたが、これは「ヤソオ」と誤読されかねないので、既に「ヤスー」で本を出してはいたが、いまはYASUOMOONの合成語として「ヤスーン」と呼んでいる)は、大陸移動説の原動力を考えているうちに、アイデアを得たものである。これはいまのマントル対流説、プレート・テクトニクス説と対立する仮説体系になってしまった。

 感心するのは清張氏の直感的な把握力である。私が「地球の大陸の創成にまつわる雄大な“推理小説があります。その謎を解くカギは“北が広く南が狭い地形はあってもその反対はない。山脈、海底地形の中にもその特徴は残されている」と説明すると、すぐ「それは陶磁器の釉のようなものだね」と独自の理解を示された。

 今回の小説の中でも「地殻はその岩石に含まれた放射熱が発動機となって地殻自体がマントルの上をベルトコンベアのように移動している」という部分など、完全に氏の独創である。45億年前に落下した「ヤスーン」は、大陸となった後、縁日の樟脳の船のように、適当に分離したり、勝手な方向に動き回ったりしながら、3億年前にはパンゲアとしてまとまった。こう考えると、私の説と現代の学説はうまく折衷され、これだと対流説、プレート・テクトニクス説に対する私の攻撃の多くがうまくかわされることになる。

 もはや、これは私の説の紹介ではなく、松本清張説の出現といっていい。こわい敵があらわれた]

 ここに、「ヤスー」と「ヤスーン」の違いについての記述があるので、当時の私の心境を説明しておく。

 私の名前を英語で書くと、Yasuo Shinozukaとなり、アメリカ人には読みにくいらしい。zとkがあるせいか、ロシアの名前か? などと訊かれたこともある。当時はそれが嫌で、何でも短くしなければ、と考えていた。篠塚という名前は、日本人にすら、「篠崎」とか「篠原」とか間違えられやすい。それで、名前も「篠」タイトルも「ヤスー」にしたのだが、書いたように、かえってトラブルのもとになるだけだった。

 さて、この投書を出す気になった一番の理由は、白川保雄の語る内容が、そっくりそのまま私の語った通りではないのだ、ということをはっきりさせておきたかったからである。ところが林さんからの手紙によれば、清張氏は、「できるだけ篠塚君の言葉通りに書いた」と言っていたそうだ。そうなると今度は、こんな投書をして、清張氏の気分を害したのではないか、と心配になった。 

2011年10月26日 (水)

清張氏の、守られた約束 その25

  岩石中の放射熱が発動機

 こうした全体の流れの中に白川保雄の説明を置いてみると、いくつかの大きな間違いに気付く。

[モホ面から上に出ている地殻は、その岩石に含まれた放射熱が発動機となって地殻自体がマントルの上をベルトコンベアのように移動していると推定されました。かくて大陸の移動はマントルの熱対流が原動力になっているという説もまた旧説となったわけです]

 マントルの熱対流が大陸移動の原動力になっているという説は、今でも旧説になっているわけではなく、プレート・テクトニクスの原動力として立派に生き残っている。プルーム・テクトニクスというのがマントル熱対流を継ぐものとして出てはいるが、それらは対立するものではなく、相補い合うものである。

 さて、分からないのは前半部である。「岩石に含まれた放射熱」というのは、私の「ヤスー」の本の中で取り上げてはいるが、それは批判のつもりであった。 

 マントル対流というのは、地球の中心部の方に熱源があり、それが鍋の中の熱湯のように上昇して、表面に達してから横向きの流れとなり、放熱して冷えて重くなり、再び地中深くへもぐりこんで行く、という循環のことを言う。つまり、熱源は地球の中心核近くにあるということを、暗に仮定しているのである。しかも、では何故その辺りに熱源があるのか、に対する説明はない。

 ところが別の所では、岩石中の放射性元素の研究結果が語られる。放射性物質は、一番軽くて一番上の花崗岩その他、大陸を構成している岩石に最も多く含まれている。海底や大陸基部を構成している玄武岩がそれに次ぎ、マントルを構成していると見られる岩石中には、放射性元素が一番少ない。放射性物質の崩壊熱こそが熱源だ、と言われることもある。だとすれば、上の方ほど熱いことになり、マントル対流など起こるはずもない、というのが私の指摘である。

 いったい清張氏は、「岩石に含まれた放射熱が発動機となって地殻自体がマントルの上をベルトコンベアのように移動している」という文章をどこから引用したのだろう? それとも、まとめている最中に、自分で考え付かれたのだろうか?

 ところがこの「放射熱が発動機となって」という考え方だと、プレート・テクトニクス説に対する私の、もう一つの批判をかわすことができるのだ。

 前にも触れたように、大西洋の中央には、大西洋中央海嶺と呼ばれる巨大な海底山脈がある。大西洋両岸の海岸線と同じ形をしていて、曰くありげである。プレート・テクトニクス説では、両岸の大陸がくっついていたのはその中央海嶺のあった場所であり、そこで湧き出して横向きになったマントル対流の力が、遠く現在の位置へと両側の大陸を隔てたのだ、と説く。

 ところが中央海嶺というのは、大西洋だけにあるものではない。大西洋の南からインド洋を抜け、東太平洋を縦断した後、メキシコのあたりで、北米大陸の下に潜入(第17図)している。大西洋で大陸を分断したはずの中央海嶺が、北米大陸の西岸では何故分断することなく、大陸に乗り上げられているのか? 北米大陸を押し戻す力はないのか? これは、マントル対流を原動力とする大陸移動説、もしくはプレート・テクトニクス説の大きな欠陥であり、私があらゆる機会に、科学者たちに質問する点である。未だに、満足する答えを得てはいない。

 しかしもし、清張氏のように、熱源が地殻上の大陸そのものにあり、大陸は樟脳の付いた船のように移動できるとするならば、私からの批判をかわすことはできる。もっともそれだと、大陸が移動する理由を説明はするが、マントル対流論とは矛盾するので、プレート・テクトニクス学者らが気に入るだろう、とは思えない。

2011年10月22日 (土)

清張氏の、守られた約束 その24

  マントル対流が大陸移動の原動力

 さて、そのパンゲアは3億年ほど前に分裂を開始した、とウェーゲナーは言う。我々が現在知っている形における、大陸移動説の誕生である。それに対して、当時の学界は猛烈な反対をする。専門外の気象学者が地質学者らの縄張りを荒らした、と考えられたのだろう。ウェーゲナー説に感銘を受けた結晶物理学者ブラッグ卿が、1919年にイギリスで、説を紹介する講演を行った。そのとき、地質学者らの猛反発ぶりに度肝を抜かれた。

[「(口から)泡を吹くという表現はきいたことはあるが、あのとき初めて見た。あの地質学者は卒倒するのではないかと思った!」]

 と後で彼が語ったほどの、凄まじさだったらしい。

[一九二三年ロンドンでの王立地理協会、一九二八年アメリカ石油地質学協会などでの討論は出版物として残っているが、そこでの著名な地質学者達の議論は再現をはばかるほど敵意と侮蔑にみちたものだった](上田誠也著「地球・海と大陸のダイナミズム」NHKライブラリー 1998年)

 ウェーゲナーは1930年、奇しくも50才の誕生日にグリーンランド探検中に死んだ。新説を標榜(ひょうぼう)して生前は世に受け入れられず、不遇に死んだ彼の生涯を思うとき、私も熱いものを感じる。いま安直に、ウェーゲナー説の信奉者である、と自分でも思い込んでいる学者たちが、その時代に生きていたとして、果たしてそれでも、信奉者であり得たであろうか。現代という時代の体制派に唯々諾々として従う者が、学界の大勢が反対派で占められていた時代に、あえて異を唱えただろうとは思えない。

 彼の死に伴って、大陸移動説は死んだも同然の状態となった。それを細々とながら生き長らえさせたのは、イギリスの研究者たちであった。それには、イギリスで地質学の教科書としても使われた「一般地質学」の著者、アーサー・ホームズの影響が大きかった。その本は、大部であるのにもかかわらず、非常に読み易く、図や写真もふんだんに使われている好著である。その中では、大陸移動説が生き生きと語られ、ホームズ自身のマントル対流説が、大陸は何故動いたのかを説明した。

「一般地質学」を読んで育った学生たちが、やがて研究者となり、世界各地に出かけて、大陸移動説の証拠を集めた。ウェーゲナーらが提出した証拠は、古生物についてであったり、堆積層の連続ということであったり、いくぶん客観性を欠くものであった。それに対して彼らが集めたデータは、残留地磁気の測定という数量的なものであった。アメリカ大陸がヨーロッパから次第に離れて行ったことを示す、彼らの集めたデータは、それまでの、強固な反対派をも黙らすことになった。

 ところが、話はそう単純ではない。その後も続々と集まった各地からの残留地磁気データは、必ずしも大陸移動説を支持するものばかりではなく、どう解釈していいのか分からないほどの、混乱を招くことになる。言ってみれば偶然にも、有利な証拠が一番最初に出て来ただけ、だったのかもしれない。しかし、一旦決まった流れは変わらない。海底からの新たなデータが次から次へと集まり、大陸移動説は、海洋底更新説となり、プレート・テクトニクスとなり、今や、それらの説が真理であることを、疑うものはほとんどいない。

2011年10月18日 (火)

清張氏の、守られた約束 その23

  大陸の起源、単複数の違い

 次に庄吉は、君の説を聞きたいが、その前に、これまでの説を分かり易く、かいつまんで話してほしいと頼む。それに答えて白川は、

[「そうなんです。ぼくはこれまでの諸説を読んで疑問をおぼえました。そしてその疑問をじぶんで解決しようと思って考えぬいた末、一つの仮説に到達したんです。……わかりました。わたしの説を聞いていただくだけでもありがたいです。こんな話に耳を傾けてくれる人はめったにいないから、うれしいことです。感謝します」

 白川はぺこりと頭をさげた。よほどうれしかったようだった。] 

 細かいことだが、「これまでの諸説を読んで疑問をおぼえた」というのは違う。一応、科学的な話を読んだりするのが好きではあったが、化石を掘ったり、昆虫を集めたり、天体を観測したり、というような科学ファンではない。地球創成についての諸説など、読んだことはない。アイデアを得たから諸説を読む気になったのである。そしてその結果、私のアイデアで、諸説がかなりうまく説明できると、後になって発見したのである。

 しかし、清張氏の話の持って行き方、には感心した。最初に既存の説を説明しないでは、地球の問題にもともとは興味のない一般の読者は、何を話しているのか、理解できない。

 続いて白川が語る学説史は、清張氏が調べてまとめたものである。「ゼロにひとしい」状態から、専門でもなく興味もない分野の話を、よくぞここまでまとめたものだと思う。

 ヨーロッパからアフリカ西岸に至る海岸線と、南北アメリカ大陸東岸の海岸線とは、似たような形をしている。このことは、17世紀のフランシス・ベーコン以来、数多くの西洋人により気付かれていた。彼らは子供の頃から、新大陸が大西洋をはさんで、隣り合わせに置かれている世界地図を見て育ったわけで、彼らにとって、大西洋は大きな川と見えたかもしれない。

 気象学者アルフレッド・ウェゲナーもまた、そうした西洋人の一人であった。彼は独自に資料を集めているうちに、大西洋両岸の大陸ばかりか、全ての大陸が一つにまとまっていたのではないか、と考えるようになった。そのたった一つの大陸をパンゲアと名付け、「大陸と海洋の起源」という本を出版した。1915年のことである。

 私は最初、このタイトルにおける、「大陸の起源」というのは正しくない、と思っていた。大陸の起源というからには、そのたった一つの大陸であるパンゲアがどうして生まれたのか、を議論しなくてはならないのに、そこの部分は不問にしている。納得がいかない。

 丸い地球にパンゲアがあるのは、横から見た眼球の黒目の部分のように、一ヵ所だけ突出しているということである。丸い地球が自分自身の内在的な力で、そのようなこぶができるのは、原理的にありえない。地球の中心に引っ張る重力が、地表の全てに均等にかかっているので、地表面は平均的に平らになりこそすれ、出っ張りを生み出すことはない。つまりパンゲアは、外因性のものでなければならず、どうしても、ヤスーンの落下のような事件を、仮定しなければならないのである。

 というわけで、「大陸と海洋の起源」というタイトルは、「羊頭を懸けて狗肉を売る(実際には犬の肉を売っているのに、羊の頭を店頭につるし、さも羊肉を売っているかのように見せかける、誇大宣伝)」類のものだ、ぐらいに考えていた。ところがある時、英文のタイトルの大陸が、複数であることに気がついた。我々日本人は、単数か複数かあまり気にすることがないので、混同していただけなのだ。複数となれば問題の大陸は、たった一つの大陸のことではなく、分離した後の現在の諸大陸が、どうしてできたかを論じている、ということになり、看板に偽りはなかったわけである。

2011年10月14日 (金)

清張氏の、守られた約束 その22

  山犬のように権威にかみつく

 ここに、「風雪断碑」という実在のタイトル名を書いたことで、木谷庄吉は松本清張本人である、ということを“自白してしまった。もはや、木谷という仮名の語り手を主人公とする小説ではなくなっている。 

 どうやら、清張氏にとってこの作品は、非常に重要な意味を持っているようである。中学卒の学歴ゆえに、博物館への就職を断たれた主人公は、事あるごとに、中央の権威に楯突く。この作品が書かれたのは清張氏45才。芥川賞を得てから2年経ったとはいうものの、それで仕事が、わんさと舞い込む時代ではなかった。小倉から東京に出て来たばかり、まだ将来の定まらぬ氏にとって、「風雪断碑」の主人公の心情は、まさに、清張氏自身のそれであったのかもしれない。「松本清張の召集令状」の著者、森史朗氏は、

[黙殺と冷嘲とは過激な表現だが、清張さんも文芸評論家から一時期そのような扱いを受けた。文壇の手応えもないままにひたすら原稿を書いていた孤独な魂が、木村卓治と二重写しになっていたのではないだろうか]

 と書いている。

 そしてまた、小学校卒の経歴しか持たないが故に苦しんだ、若い日の清張氏の、投影でもあったのだろう。

[「私の作品に多い主人公の原型は、この森本六爾(主人公木村卓治のモデル)を書いたときにはじまる」]

 と清張氏も語っているそうである。

 それ以前に「風雪断碑」を読んだこともなく気付かなかったが、清張氏にとって私は、“生ける森本六爾”だったのかもしれない。そう言えば、冒頭に書いたように、私は自費出版の本の他に、要約した原稿を差し出していた。その書き出しは、

[権威との戦い 一匹の蟻が巨象に立ち向かっている。それが今の私の姿である]

 となっている。清張氏は

[「彼(森本)が山犬のように権威にかみついたところが好ましい」]

 と語ってもいたそうである。偶然にも私は、最もふさわしい人に、最もふさわしいアプローチの仕方をしたようである。

 しかし私は、清張氏と出会って四半世紀を経た今となっても、森本のレベルに達していない。中央の権威に、反論のつぶてを投げかけることすら叶わない。学会誌に、論文を発表する機会でもあればよかったのだろうが、私はあえて、そうした正攻法を探ってはこなかった。

2011年10月10日 (月)

清張氏の、守られた約束 その21

  文藝春秋1984年新年号に続く

 さすがに素晴しい描写である。私はインドに行ったことはないが、その暑さや、赤い砂浜と青い海、黒檀の木彫りのような乞食の姿などが目に浮かぶ。千駄ヶ谷の喫茶店ルノワールが土産物屋になり、椰子の実の果汁を飲む、となっているのも面白い。それが契機となり私は時々ストアで、椰子の実を見かけて買ったりする。冷やしたものは、結構美味しい。

 篠塚安夫が白川保雄に変えられているのに、名刺が英字ばかりで、Pine & Rose Garden Serviceはそのまま使われている。そんな奇妙な名刺を差し出す者は日本で皆無だろうから、よっぽど印象に残ったのかもしれない。

 私は小学生の頃に、生えたばかりの永久歯を失い、下の前歯に隙間ができている。実際に書くまでには、一年半の間隔があったというのに、私の印象を捉えて、よく憶えていたものだ、とも思う。

 翌月の文藝春秋、つまり1984年新年号は、注文しておいたせいもあり割合早めに、12月初旬には手にすることができた。

 最初は前号を受け、茶碗の話。志野茶碗が、後編では備前になっている。焼き物についてよく分からないので、志野と備前は同じことかな、と思ったりしたが、どうも違うようである。志野は岐阜、備前は岡山でできる焼き物らしい。どちらにも、垂れのできる作品はあるようだが、そちら方面に詳しい清張氏は、備前の方がもっとふさわしいと考え、後編で変えたのだろう。

 その後、大陸移動説、マントル対流説などの話になり、そこに、興味深いコメントが付いている。

[もともと庄吉は科学知識はゼロにひとしく、小説さえ書いていれば、そんなものは不必要だと思っていた。まして地球の創成などは念頭にない。

 が、ここで庄吉が白川の話に興味に近いものを持ったのは、地球学には全く専門外のはずのアメリカ西海岸の邦人造園家が、地球の形成について従来の学説とか通説とは違った独自の発想を持っているらしいこと、その発想は茶道で使う茶碗で説明されるらしいこと、などで彼の話が面白そうな気がしたからだった。

 また、それだけではなく、白川の話にともかく耳を傾ける気持になったのは、さっき庄吉を呼びとめたとき彼が、木谷さんは「風雪断碑」という小説を書かれているのでぼくの話がわかってもらえると思いますという意味の言葉を吐いたからで、その小説というのは生前不遇だったある考古学者を主人公にしたものだった。白川の口ぶりからすると、彼自身をそれに似た不遇の研究家に擬しているようであった]

2011年10月 6日 (木)

清張氏の、守られた約束 その20

  インドを放浪する男

[十月の初め、南インドのマドラスに庄吉は三日間滞在した]

 という書き出しで始まる。マドラスとは現在のチェンナイであり、庄吉とは当然ながら、清張氏自身をモデルにしている。

 その滞在中、約60キロ南の海岸寺院を訪れる。そこには赤い岩山があり、その崖にはヒンドゥー教神話の浮き彫りが、びっしりと隙間なく彫られている。

[高さ十メートルの断崖の中央に溝のような凹みがタテに彫られてあり、その中に七頭のコブラを背負ったの竜(ナーガ)の女神が三神、 微笑をふくんで縦列で立っている。なんでもガンジス河が天から下降するのを表現しているのだそうである]

 そこやその隣の岩窟寺院を見た後、海岸の方へ移動し、乞食や観光客についての描写がある。

[そんなことで時間をとり、海岸寺院が眼に入るところまで来たのは十一時ごろであった。寺院までは岩の上を歩かなければならない。

 太陽は頭上にきて照りつけている。寺の建物は見えてもまだ相当先のほうで、そこまでは見渡すかぎり鉄分の多い赤い砂の展開だった。海岸だから風があるように思えるが、空気は重く停滞して動かず、ひどく蒸し暑い。太陽の熱射とこの蒸し暑さとで、吐く息よりも吸う息のほうが熱かった。気温は四十度近くもあろう]

 目当ての海岸寺院は海岸の脇にある。いかにもヒンドゥー教寺院の典型として、そのピラミッド型の建造物の外も内も、一センチの隙間もなく彫刻が、柱にも壁にも彫られている。見ていて神経がくたびれるほどだ、という描写が続く。

[しかし、海の眺めはいい。島一つなく、漁船一つ浮んでなく、燃える太陽の下のベンガル湾は途方もなく碧(あお)く広く、雄大を通りこして、地球の四分の三は海だ、という実感がひしひしとせまってくる]

 寺の裏の石段を伝って降り、海岸の砂地に飛び降りたとき、真黒な裸身の男乞食に遭遇する。それに驚いて急いで立ち去るが、乞食は庄吉のことを凝視し続ける。

[そこに執念のようなものを感じて、不快というよりは気持が悪かった。しかし、涯(はて)ない海から横一線になって押し寄せる白い波頭を背景にした黒檀の木彫りのような乞食の姿は、岩礁上のヒンドゥー教寺院を横に入れて、画になる構図であった]

 庄吉が土産物屋に近づいたとき、白い帽子の見知らぬ男に声をかけられた。旅慣れた感じの日本人で、背はひょろ高かった。帽子を脱ぐと、

[髪はもじゃもじゃだが、額はやや禿げ上がって広く、長い顔の下半分の、口のまわりが髭で真黒であった。開いた口の中は隙間のある前歯が乱れ気味にならび、眼は細かった。いよいよ知らない面貌だが年齢はどうみても四十歳をこしているように思える]

 彼はインド南端のコモリン岬から、バスや汽車を何回も乗り継いで、十七時間かけて来たという。大変だったね、と言うと、先ほどのあの乞食に比べれば何でもない、と応える。

[あの乞食こそ真のヨガの行(ぎょう)ですよ。なにしろ灼きつく太陽と、熱砂に焙(あぶ)られて、一日じゅうああして坐っているんですからね。それも毎日ですよ。当てどもない観光客の喜捨を当てにしてね]

 コモリン岬がどんな所か、などの会話が交わされた後、男は突然、木谷(庄吉)さんならわかってくれるかもしれない、と言い、土産物屋の奥へ誘う。庄吉はジュースを飲み、その男は椰子の実を鉈で切らせて、その果汁を飲む。

 そこで初めて、その男は名刺を出して自己紹介する。名刺は全て英文活字で、Pine & Rose Garden Service / YASUO SHIRAKAWAとなっていて、住所はカリフォルニア州の都市になっている。

 白川保雄は肩のカバンから世界地図を取り出し、北半球に大陸が多く、南半球には少ない、大陸の先端が逆三角形になっている、などと説明を始める。こうした地形ができたことに、人はなぜ疑問を持たないのか。それは、摩滅した知識を与えられているだけだから、疑問を疑問と思わず、そういう形が当たり前だ、と思っているからだ。自分は学者たちを訪れて、尋ねて回っているが、誰もはっきりしたことは言えない、誰にも分からないからだ。自分は地球の創成にかかわるこの問題に回答を持っている。それを分かりやすく理解してもらうには、と言いながら、スーツケースの中から木箱をとり出し、その中から志野茶碗を抱え出した。

 というところで、前編は終わっている。

2011年10月 2日 (日)

清張氏の、守られた約束 その19

 第2章 「南半球の倒三角」

  本来は、「大陸」の倒三角

 一年半ほどして、もう小説になることはないのではないか、とあきらめかかっていた頃、ワイフが、林さんの手紙を私の仕事先に届けてくれた。急いで開封すると、「南半球の倒三角」という小説が、文藝春秋1983年12月号に掲載されるとある。

「うわー、やったー。さっそく仕事が終わったら、本屋に行ってみよう」

 と言い、ワイフにも手紙を読ませた。

 私は仕事を早く終える段取りをつけ、忙しく働いた。

 その日は、にわか雨が時々激しく降ったりしたが、全体としては晴れていた。あれはどういう現象だったのだろうか、あんなに近い虹を、それまでに見たことはなかった。わずか50メートルほど先の木立から、淡い色の虹の柱がぼーっと立っている。近づけば遠去かる。もちろん、虹は空気中の水分が、太陽光線を屈折して生まれるプリズム現象であるに過ぎない、とは知っている。しかし虹の出現は、雨上がりで空気が清浄である時に、晴れ間が現れてできることが多い。何かしら希望の象徴のようでもある。それに何よりも、原色の色の配合が美しい。車を運転中に虹を認めたりすると、幸運の兆しのようにも思え、浮き浮きする。

 清張氏の小説が出たと知らされた直後に虹が、それも、今までに経験したこともない形の虹が見えたことで、私はすっかり嬉しくなった。これは吉兆だ、と思った。しかし、虹は蜃気楼と同じ、今度こそ掴まえられると思って近寄ると、スーッとまた遠くに消えてしまう。その繰り返しであるその後の人生の、暗示だったのかもしれないと、今になれば思う。

 帰宅して着替え、サンフランシスコへ出かけた。サンフランシスコの日本人町へは車で3~40分、どうかすると1時間はかかる。夕食は、あらかじめ準備させておいたおにぎりとおかず、食べながらの運転である。有難いことに、目指す文藝春秋は既に入荷していた。航空便があるので助かる。

 タイトルは「南半球の倒三角」。はてな? 倒三角? 逆三角形のことだろうか? 清張先生の時代は、倒三角の方が一般的だったのだろうか? しかしいずれにしろ、この言葉は良いな、と思った。逆三角形よりも、語の響きが良い。私が聞いたことのない言葉ではあっても、意味ははっきりと通じるし、何よりも新鮮である。

 問題なのは南半球の方である。本当を言うと,南半球では意味が通じない。それだと、インドも北アメリカも、グリーンランドも除外されてしまう。本来は、「大陸の倒三角」である。しかし、タイトルをつけるのがうまい、というので評判の清張氏のことである。何か深い意味があるはず、と思った。

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