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2011年7月

2011年7月28日 (木)

原発問題を考える その6

  原発の危険性を知らぬはずなかった

 震災後しばらくして、原発関連の本が、サンノゼの紀伊国屋の平積み台に並ぶようになった。そこで「放射能で首都圏消滅」(古長谷稔著、三五館刊、2006年)という本を見つけて買った。他にもっと名の通った著者・出版社の本も出ていたが、私はあえて120頁ほどのこの薄い本を選んだ。2006年の本の緊急重版である、という帯の言葉と、福島で起こったことと照合する記事の内容とに惹かれたからである。

 後で記事をよく読んでみたら、“チャイナ・シンドローム”(アメリカの原発がメルトダウンして、溶けた高熱の金属の塊がどこまでも落ちていき、地面も溶かして地球の反対側の中国まで行く、という意味で作られた言葉)を肯定的に書いてあるのが傷になっている。仮に地面を溶かし穴を開けることがあり得たとしても、地球の中心から反対側に上る(中心から先は落ちるではなく上ることになる)ことはできない。島村英紀氏の「教室ではおしえない地球のはなし」(ブルーバックス。「地殻底のマグマ層その1」を参照)には、巨大な鉄球を地表に置くことができたならば、鉄球自身の重力によって地球の中心に落ちていくことができる。しかし、そこから戻ってくることができない、という話が出ている。

 私が本屋で立ち読みしたとき目にしたイラストには、水素爆発のことが書いてあったし、津波のイラストもあった。この程度の一般向けの本で、5年も前に書かれていたことが、今回福島で、現実にもほぼ同じように起こった、という事実に衝撃を受けた。津波の危険性、配管の破断、水素爆発の可能性などなど、原発関係者なら、ここに書かれているそんな初歩的な知識、よもや知らなかったはずはない。

 週刊誌のどこかで読んだと思うのだが、東電の中で、原子力関係の役員は、既にたび重なる不祥事の責任を取らされて、辞職したか左遷されている。残った現在の役員に、原子力の技術畑のものがいないため、このような大事故の場合、適切な処置を取れないのだ、という。世の中には、そういう皮肉なことがあるものなのだ、ということで印象に残った。

 それにしても、水素爆発を起こさないための冷却がどれほど大切か、という初歩的な知識すら、東電の震災時の役員たちは持ち合わせてはいなかった、ということになる。もしもほんのわずかでも危機感を持っていたなら、3月以前に、電源喪失や配管破断に対する備えを済ませていたはずだ。原発のような危険を伴う事業の指導者たちには、危機管理のための知識と対処能力が、あらかじめテストされる必要があるかもしれない。

 この「首都圏消滅」という本には、茂木清夫前地震予知連会長、石橋克彦神戸大教授らの地震学者が、前々から浜岡原発の危険性を警告し続けてきていたとある。後者は、“原発震災”という言葉の生みの親でもあるそうだが、2005年2月の衆議院予算委員会・公聴会で証言してもいる。その時の以下の言葉は、いろいろな意味で興味深い。

[地震学者は、地震がまだよくわからないものだということをよくわかっている。 しかし、原発関係者は、地震のことはすべてわかっているような論理で安全性を主張する。それがおかしい。]

2011年7月24日 (日)

原発問題を考える その5

  日本が原発を導入した構図

 前に引用した中曽根康弘氏の言葉(AERA「原発と日本人 100人の証言」、「東日本大震災に思うその2」参照) の別な箇所をさらに引用する。

[終戦後、日本の最大の問題はエネルギーでした。石油はない。石炭は貧弱。天然ガスもない。敗戦から立ち直り、国として独り立ちするには、エネルギーの確保が大命題だったのです。

着目したのが原子力でした。アイゼンハワー米大統領が原子力の平和利用に政策転換すると知り、「日本も負けてはいられない。次は原子力の時代になる」と考えたのです。しかもこれは科学技術の推進にもつながる。原子力と科学技術を発展させないと、日本は4等の農業国家になる。そうした危機感を当時の私は強く抱きました。]

 スリーマイル島、チェルノブイリ、そして福島第一とあった後の感覚でこの言葉を捉えてはならない。当時の日本人にとって「原子力の平和利用」は、中曽根氏の言葉にあるとおりの意味において、明るい未来を示す良い言葉だったのである。

 中曽根氏が日本に原子力を導入しようとしていた同じ頃、もう一人の有力者が「日本の原子力の父」と呼ばれるほどの影響力を持った。読売新聞社主として名高い正力松太郎氏である。読売巨人軍のオーナーとしても、日本テレビの創立者としても有名であった。中曽根氏を扱った以上、一応確認しておこう、という軽い気持ちからウィキペディアに目を通してみて驚いた。アメリカ中央情報局(CIA)との関わりが書いてあった。

 それがきっかけとなってインターネット上を調べていくと、「原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史(新潮新書)」(有馬哲夫著、2008年)や毎日新聞夕刊の記事(2011420日)などで扱われていると知る。

 もう一つ、「原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~」という1994年に放映されたNHKのドキュメントがアップロードされていて、素晴らしい内容なので驚嘆した。それを見ると、私がこれから書こうとする日米間の関係に関する推理など、とっくの昔に調べ上げられていたことでしかなかったようだ。

 原発は、アメリカにより日本が買うように仕向けられたのだ、というのが私の疑いだった。その根拠は、グレープ・フルーツである。以前テレビの番組で、この夏みかんよりも甘くて食べやすい果物が、沖縄返還の見返りとして輸入制限が解除された品目の一つなのだ、と知って驚いた。そんなマイナーな農産品までも政治的な取引の対象として売りつけられたならば、もっと高額な兵器などをはじめ、いろいろなものが売りつけられていて不思議はない。福島第一の原子炉は、アメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック)社製だと知り、その当時の何らかの取引材料だったに違いない、と推理した。

 実戦を戦った世代の政治家たちが原発にこだわったのには、核兵器への転用が容易だ、ということがあったかもしれない、とも推理した。やがて再軍備が必要な状況になる日のために、平和利用という名目で核燃料を備蓄し、核を扱う技術を持っておくべきだ、と彼らが考えた可能性がある、と私は信じている。

2011年7月20日 (水)

原発問題を考える その4

  原発を地元が求める経済的構造

 このブログを書こうとして、日経サイエンス誌の、無料特集記事の出し方を再確認していたとき、岩波書店の「世界」という雑誌もまた、2011年1月号特集「原子力復興という危険な夢」からの3論文を、当分の間無料で公開していると知った。

①マイケル・シュナイダー氏(田窪雅文氏 訳)「原子力のたそがれ――米・仏・独のエネルギー政策分析から浮かび上がる再生可能エネルギーの優位性」
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/01/pdf/skm1101-1.pdf

②明石昇二郎氏「原発輸出――これだけのリスク」
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/01/pdf/skm1101-2.pdf

③葉上太郎氏「原発頼みは一炊の夢か――福島県双葉町が陥った財政難」
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2011/01/pdf/skm1101-3.pdf

 どの論文も目からうろこの部分があり、素晴らしかった。①においては、原発の発電単価は上昇し続け、下降する再生エネルギーの単価と逆転することになるという。②においては、日本の金を貸すことによって獲得したベトナムへの原発輸出が、将来の日本へ利益をもたらすビジネスというよりは、事故などの場合の補償を負わされるリスクの大きな賭けである、と指摘している。この論文が東日本大震災の直前に書かれていることは注目に値する。日本の政治家はあまりにも甘い、と思った。

 ③においては、福島第一原発のある双葉町の財政の歴史をレポートしている。1960年、「地元の双葉町と大熊町の町長が、東電と県に誘致の陳情書を提出する形で、具体的な動きが始まった」そして「営業運転は71~79年、全6基で開始している」のだそうだ。地元からは、通常の企業誘致という感覚で受け入れられた感じがする。

[誰もが「農家しかなく、出稼ぎばかりだった」と語る土地が、首都を支える一大電力工場になったのだ。東京へ出稼ぎに行く替わりに、東京へ送る電気を製造するようになったのである。両町は東北電力の営業エリアなので、地元で使う電気ではない。原発は純粋に首都圏のためのものだった。]

[町には発電所や関連企業の固定資産税・法人税が流れ込み、一気に都市並みの税収になった。国の電源交付金も潤沢に注ぎ込まれた。町はそれらを原資にして公共施設を建設した。50平方キロほどの小さな双葉町はみるみる変わった。]

 ところがそれらの収入は一時的なものであり、やがて途絶えるか、減少した。

[町は次第に財政難の様相を呈した。

普通の自治体なら、足りない分は地方交付税が配分されるので、この程度では財政難にはならない。しかし、「豊かな財源」を背景に整備した施設の維持管理で経費がかさんでいた。何もなかった町は、ないものがない町になっていた。

91年、町議会は全会一致で「原発の増設に関する決議」を採択した。双葉町側に2機増設してほしいという誘致決議だった。]

[その後も町は事業のペースを落とさなかった。理由はいくつもある。

その一つは、豊かさに慣れた町民が町にどんどん要望するようになったせいだという。「隣町にあるのだから造ってほしい」という声で始まった事業もある。]

 ここには、なぜ原発が人口減少の町や村などに沢山造られてきたのか? に対する答えがある。構造的なものなのだ。

2011年7月15日 (金)

原発問題を考える その3

  原発容認派はいまだに多い

 前回中曽根康弘氏の言葉を引用した「AERA 原発と日本人」には、考えさせる貴重な記事が多い。「原発学者は揺るがない」というタイトルの記事から引用する。

[惨状を前にして、専門家は何を考えたか。原子力発電の問題に第一線で取り組んできた科学者らを対象に、アエラでは緊急アンケートを実施、3月24日までに回収した。

知りたかったのは、「事故によって原子力発電への姿勢が変わったかどうか」

結果は明確だった。反対派はもちろん、推進派にもまったく揺らぎは見られない。

その一貫した姿勢は、福島第一原発のような「軽水炉」というタイプの原発の推進にとどまらない。大量の核燃料を扱う「再処理施設」や、プルトニウムを用いる「高速増殖炉」というような、より危険性の高い施設についても、推進派はそろって「進めるべきだ」と回答した。ためらいはない。]

別の記事には次のようにある。

[事故を受け、国民は原発に厳しい目を向けつつも、全否定しているわけではない。

「原子力発電を利用することに賛成ですか。反対ですか」

朝日新聞社が4月16、17日に実施した世論調査の結果は「賛成50%、反対32%」だった。ただ、ほとんどの被災者は調査対象から外れている。毎日新聞社が同じ日におこなった調査では、こうだった。

「震災前、日本の電力の約3割が原子力発電によって賄われていました。原発に頼っている日本のエネルギー政策をどう思いますか」

その質問に対し、回答は「やむを得ない40%、原発は減らすべきだ41%、全て廃止すべきだ13%」。ただ、男女の違いが際立ち、男性だけでみると「やむを得ない」は52%に上がり、女性だけでみると32%に下がる。

意外な結果というべきか。それとも、日本のエネルギー自給率の低さを頭に入れたうえでの現実的な判断とみるべきなのか。]

 このように見ていくと、「原発をなくそう」という強い意志が、国民全体の共通の認識になっているとは言いがたいようだ。放射能の危険性というものがまだ、骨身にしみたものとして捉えられてはいないのかもしれない。将来出てくるかもしれない身体的な障害よりも、電気がない不便さや電力不足による経済の停滞の方がより大きな現実だ、と思うものが多いのだろう。

 私は経験していないので分からないが、オイルショックの時の日本では、大変な思いをした者が多く、エネルギーのないことに対して敏感なのかもしれない。しかし、アンケートに一つだけ項目を付け加えてほしかった。

「あなたの町の近くに、原発を新しく建てる計画があるとして、あなたはそれを容認しますか?」と。

2011年7月12日 (火)

原発問題を考える その2

  原発は原子力平和利用として始まった

 前回引用した日経サイエンス編集長の文章を読むと、あの大地震・大津波の来るのが月11日ではなく、4月以降であったなら、国や自治体が対策を立てられていただろう、という印象を持つ。

 私も、あの大震災以来、いろいろな仮定を考えたり、原発の歴史そのものを知ろうとしたりしてきた。原爆の唯一の被災国である日本で、何故これほどに原発が存在しているのか? 原子力潜水艦寄港に対しても大きな反対運動が起きた日本で、いつから核アレルギーが解消されるようになったのか? 経済成長期の日本に、原発を持たない、という選択肢はなかったのだろうか? いろいろな疑問が湧いてきた。

 振り返って考えてみると、私自身も子供の頃は、原子力の平和利用を決して悪いこととは考えていなかった。米国のアイゼンハワー大統領が国連演説で原子力の平和利用を提唱したのは、1953年のことである。

 1955年には、イギリスの高名な哲学者バートランド・ラッセルとアインシュタイン、湯川秀樹らの科学者が、核廃絶も含めた平和宣言を発表した。当時は米ソによる水爆実験が頻繁に行われ、人類絶滅の可能性が大きな話題になっていた。

 また、ビキニ環礁における米国の水爆実験により、死の灰を被爆した日本人漁船員が死亡したのは、その前年、1954年のことであった。それまでは、原水爆の、爆弾としての威力により人が殺される、と思っていたので、放射能だけによっても人が死ぬとは、理解できなかった。

 ましてや、原子力発電も死の灰と同じ放射性物質を生成するのだ、という事実は、思いつきもしなかった。そこで、中学生だった私は、発電などの平和利用にどんどん使い、原水爆の原材料を減らすようにすればいい、などと考えた。今にして思えば、単純な発想である。

 当時の国の指導者にも、原水爆は別として、放射能がそれほど危険な代物だという意識はなかったと思う。AERA臨時増刊「原発と日本人 100人の証言」(朝日新聞出版、2011.5.15号)には、中曽根康弘元首相の次のような言葉がある。

[民主党の私が委員長になり、55年に原子力の平和利用を盛った原子力基本法など原子力3法を議員立法で成立させたほか、一連の原子力立法をつくった。それを基に、現在の原子力発電があるわけです。

原子力で肝心なのは事故を起こさないことです。日本ではこれまで小さな原発事故はありましたが、原子炉から放射能が出るといった大事故はなかった。そこは実に注意深く進めてきました。今回はあってはならない大事故が起きてしまいました。津波の被害があまりに大きかった。福島第一原発周辺の住民の生活、職業、子どもの将来に影響が出るような事態になったことは、本当に遺憾千万です。

日本の今後の発展とエネルギー事情を考えれば原発政策は持続しなければなりません。今回の事故をよく点検し、今後に生かす必要がある。]

 大事故が起こったことは遺憾だが、原発は日本にとって必要である。原発の創始者であることを、むしろ誇りにしているかのようでさえある。

2011年7月 7日 (木)

原発問題を考える その1

(今まで、地震や津波の問題だけに的を絞るつもりでいたために、東北地方太平洋沖地震を略して、「太平洋沖地震に思う」というシリーズ名にしてきた。これから書くことも、その同じシリーズに属しはするのだが、原発についても書くつもりなので、シリーズ名を変えることにした。)

  日経サイエンスの無料特集記事

 東日本大震災の後、テレビのニュースや解説に釘付けになった。やがて、震災についての記事のある週刊誌や本を買い求めるようになり、当地の友人たちとメールで情報を交換するようにもなった。動画に良い情報があると知らされ、長時間見て過ごしもした。日経サイエンス6月号の記事がウェブ上で公開されているとも、同様にして友人からのメールで知った。次の2つの記事が無料で読める、というのである。

「東日本大震災 鳴らされていた警鐘」 ( PDF: 4.90MB ) 

「科学者の思考停止が惨事を生んだ」 ( PDF: 1.34MB ) 

 雑誌の記事が全文インターネット上で読める、というのはよくあることなのだろうか? 原発関係者らが「想定外」という言葉を弁解ぎみに使い、それに反発した識者の文章を多くの箇所で目にした。この特集記事の無料公開も、「想定外」という言葉に対する憤りが、その根底にあるのかもしれない。

 ちょうどその特集記事を読んだのは、私が「想定外」についての島村英紀氏の言葉を読んで、下書きを書いた後でもあった。(「太平洋沖地震に思う その14」を参照)その問題も含め、特集記事をベースにして、プレート・テクトニクス説の問題点をもう少し書き続けてみたい、と思った。

 ところが、基本的にアナログ人間である私は、プリントされた文章に、線を引いたり書き込みをしたりしないと、なかなか頭に入ってくれない。そこで、日経サイエンス6月号を、当地の書店に注文し、それが届くのを待つことにした。

 中島林彦編集長の書いた「東日本大震災 鳴らされていた警鐘」は、まず次の点を問題としている。

1100年以上前、平安時代前期の貞観11年(西暦869年)に、「貞観地震」と呼ばれる巨大地震が発生し、大津波が三陸沿岸から東北地方南部沿岸に押し寄せた。その事実が東北大学や産業技術総合研究所(産総研)活断層・地震研究センター、大阪市立大学などによる地質調査でわかってきた。]

[そうしたことから産総研の研究グループは、東北から関東にかけての沿岸を5001000年の間隔で大津波が襲っていること、その周期性から考えれば、近い将来、同様の大地震と大津波が再来する恐れがあることを数年前から論文や学会で発表していた。東北大学や大阪市立大学の研究者も近い将来の大津波の再来に警鐘を鳴らしていた。

昨年には、地震学会での産総研の発表を引用する形で、全国紙各紙が東日本太平洋岸への大津波襲来の可能性を報じた。政府の地震調査研究推進本部も今年4月、国が防災対策を立てるための基礎データである「地震活動の長期評価」に貞観地震の研究結果を反映する予定で、宮城県や福島県などへの連絡を進めていた。

しかし、地震は待ってくれなかった。]

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