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2011年1月

2011年1月24日 (月)

日本で学者たちと議論 その6

  「何でプレート・テクトニクス説に反対するのかね?」

 上田氏が、泊次郎氏の本を話題にした後、さらに厳しい詰問(きつもん)調の言葉が発せられた。

「君は何故、プレート・テクトニクス説に反対するのかね?」

「先生、この前お送りした『清張氏の、守られた約束』の原稿、読んでいただけましたか?」

「いや、読んでない」

 あの原稿を読んでなかったとしても、以前お会いしたときに、私の反論を詳しく説明してある。当時はとても好意的な反応をいただいて、私は感激もした。しかし、もう、ふた昔も前のことである。すっかり忘れられたのだろう。

「私の反対は、地団研の人たちのとは違います。例えば、対流の沈み込みは、斜めになるはずがありません。太平洋を水平に移動してきたプレートは、沈み込み始めて一旦曲がり出してから、エスカレーターみたいに斜めに下降するためには、unbend(平らに曲げ戻)されなければならないはずです」

 この議論は、上田氏を相手にして、説明の要は一切ない。何故なら、私自身、先生の「プレート・テクトニクス」という本を読んでいて、気付いたことだからである。

[このことは沈み込みにあたって、下向きに曲げられたプレートが平らになる(unbend)ことをしめすものと考えられる。なぜunbend するのかについての確定的な説明は未だしの感があるが、------

 そしてその後、NHK の「ファイト」(2005年)という、朝の連続ドラマの一場面を偶然見て、あっ、これだ、と思った。らせん形のバネを作るとき、針金を棒に巻きつけて形を作り、それを焼入れなどによって固定する、と普通ならば考えるだろう。ところがそのドラマに出てくる町工場の機械は違っていた。針金を一定の速度で突き出す。そしてそれをある一点で曲げると、針金はくるくるとらせん状に曲がり、バネになるのだ。

 つまり、海溝において沈み始めるプレートは、バネ状にくるくるくると巻くか、地球の引力の影響で、象の鼻状に、ぶらんとなるかのどちらかであり、エスカレーター状に斜めに下降することはあり得ないのである。Image0

プレートは、エスカレーター状に斜めに下降する (A) といわれるが、曲げ戻されない限り、バネ状に上方に戻る (B) か、重力により地球の中心に向かう(C)。

2011年1月19日 (水)

日本で学者たちと議論 その5

  渋谷のホテルの喫茶店で

 10月4日(月)の午後、私は、岡本太郎の大きな壁画を見ながら、上田誠也氏を待った。渋谷には、ハチ公以外にも、良い待ち合わせの目標が出来た。最近テレビで、岡本太郎の若い頃の写実的な絵を見た。うまい。抽象絵画も、写実を描ける技量に裏打ちされてこそ価値があるのだろう。Cimg0144_3

 先生につれられて入ったホテルのラウンジは、明るく、感じがよかった。どうやら先生のお気に入りらしく、後日、インターネットで他の調べものをしていたら、上田氏とそこで会った、という学者のサイトを見つけた。

 まだちょっと具合が悪いので、病院に行って診察してもらった帰りだと言う。まだ完全に回復し切ってはいない身で、私と会ってくださる先生の強さと、義理堅さとに感動した。

 しかし会話は、必ずしも友好的なムードで始まってはいない。

 先生はカバンから、「反プレート・テクトニクス論」という本を取り出し、表紙を開いた。 

「これ、星野通平さんから最近送られて来たんだけど、『謹呈』というのに、冒頭から、僕を名指しで攻撃しているんだよ」

「……」

「君は読んだことあるかな、泊次郎さんの書いた地団研についての本があるんだけど」

「ええ、偶然にもこの前、金森先生にお会いした時その本の話が出て、『貸してあげるよ』と言われ、借りて読みました」

 泊次郎氏は、1967年に東大の地球物理を卒業後、朝日新聞社に入社、科学朝日副編集長、大阪本社科学部長、編集委員などを歴任。ユニークなのは、2002年、まだ朝日新聞社に在籍の身でありながら、東大の大学院に入り直したことである。2007年に書いた博士論文に手入れして、「プレートテクトニクスの拒絶と受容」(東京大学出版会、2008年6月)という本を出版した。

 この本は、日本の地質学界において絶大な勢力を誇っていた地団研という地質学者のグループが反対したために、日本でのプレート・テクトニクス(以後PTと略しもする)の受容を10年以上遅らせた、と説くものである。

 地質学者のあるグループが、PT 説に反対なのは日本だけに限らない。アメリカでも、私の月々のニュースレターに対して返事をくれた人たちの中に、反PT 説の地質学者らがいた。彼らは日本でと同様、膨張説(ぼうちょうせつ=地球が膨張したと考えることにより、湧き出し口である中央海嶺を説明し、海溝が沈み込み口であることを認めない)を信じ、ロシアの学者らに親近感を感じていた。

 私は、そうした反PT 派の地質学者たちの本やプリントもいくつか読み、とても一緒にやっていくことは出来ない、と思うようになった。彼らのPT 説への批判は、感情的であり、枝葉末節の例外的な事例をあげつらうことが多い。

2011年1月12日 (水)

日本で学者たちと議論 その4

  15年ぶりに上田氏と電話で話す 

 私は、地震予知は可能である、と考えている。 GPSによる地殻変動の連続的な計測と、地中深くでの地電流および地熱変化の計測とを組み合わせれば、地震予知必ずしも不可能ではない、というのが私の考え方である。それについては、もう少し先にいって詳しく書くつもりである。

 上田氏らがどのような研究を行っているのか、何故なかなか思わしい成果を出せないのか、ずーっと気になってはいたものの、私が地球の問題からは長いこと離れていたので、地震予知の問題で連絡を取るほどではない、と思っていた。

 今年の5月末、私は別の件で上田氏、金森氏に連絡を取りたい、と考えた。現在もこのブログで連載中の、「清張氏の、守られた約束」を読んでいただきたい、と思ったからである。

 もう長いご無沙汰である。上田氏の肉声を聞くのは、サンフランシスコの寿司屋でお会いし、その後しばらく、電話で用事を済ませたりしたのが最後だったかもしれない。とすると、もう15年ぶりというわけか、と思う。

 古い手帳を取り出して電話番号を探すと、局番が3桁である。東京の局番は4桁になり、頭に3か5が付くようになったはず。あてずっぽに3を付けてかけてみる。当たった。ご家族のどなたかが出、すぐに取り次いでくれた。

 上田氏との会話の最後に、私は、日本行きの計画について切り出してみた。

「先生、もしかすると、この9月21日から10月15日まで、日本に行くかも知れません。もしも出来ましたら、その時にお会いすることはできないでしょうか?」

 残念ながら、その時期既に、予定が詰まっている、ということであった。9月のその頃にはインドネシアに行き、10月にはロサンゼルスに行く、というのである。

 会話はそれで終わった。しかし断りの口調は柔らかく、「メールのアドレスを送るから、君のアドレスを教えてください」と、先生の方から言われた。メールの交換の後には、先生の携帯の番号も書いてあった。ずーっと昔知り合ったというだけの男なのに、信用していただけた、ということが嬉しかった。

 実際に日本に着いて1週間ほどしてから、私の滞在予定が半月延びたのを、知らせた方がいいと思いついた。今は海外かな、と思いながら、いただいた携帯のナンバーを押してみると、すぐに先生の声が聞こえた。

「実は今入院中です。海外へ行く予定はすべてキャンセルしました。……退院したら、君のこの電話に連絡しますよ」

 そして実際にも、退院前日に病院から連絡があり、そしてまたその後の電話で、渋谷で会う約束が交わされた。

2011年1月 5日 (水)

日本で学者たちと議論 その3

  茨の道をあえて選ぶ

 プレート・テクトニクス説の大御所のままであった方がよかったのかどうか、人生の選択は難しい。1984年に上田氏は、VAN法というギリシャの地震予知法を知り、それを、退職後の研究課題とした。

 私がサンフランシスコの寿司屋で上田氏とお会いしたのは、1994年12月のことであった。東大を退官してからの4年間、東海大学とテキサスA&M大学の二つの教授をかけ持っていた。東京の慌しさと、テキサスの慌しくなさとのコントラストをエンジョイしているとのことだった。

 ちょうど私と寿司屋で昼を一緒にした日の夜、ホテルに帰ってみると、留守宅の奥さんから連絡があった。「ギリシャで地震予知が成功した」というニュースが朝日新聞に出ているということであった。

 その翌日だかに、依頼されてその新聞記事のコピイをホテルに届けると、

「いつまでも、テキサスにいるわけにはいきません」というわけで、テキサスA&M大学の方は、辞める決意をされたようである。

 事実、1996年からは相当の研究費を与えられて、上田氏を中心に本格的なVAN  法研究が始まった。ところが、ギリシャと日本では条件が違うのだろうか、なかなか思うような成果が上がらない。しかも、地震予知に対する強烈な反対が、かって在籍していた東大の、同じ地球物理学者らの間から上がるようになった。地震予知は不可能だから、その研究もやめよというのだ。

 皮肉なことに、かって東大の助教授として招聘(しょうへい)するときに、上田氏が強く推挙したロバート・ゲラー氏(現教授)が、最も強力な反対論者である。彼らの反対が功を奏し、予知はできないものだ、というムードが日本に醸成(じょうせい)され、研究資金が回ってこない状態になった。

 大陸移動説、プレート・テクトニクス説を広めるときに一番手だった上田氏は、日本の地質学者らの攻撃の矢面に立たされた。しかし、退職時の頃までに、それらの攻撃はほとんど平定されていた。

 その安定した立場を捨てて、いったい何故上田氏は、不慣れな地震予知の分野に進んだのか? あえて未知の、茨の道を選んだのか? 最近になって、上田氏にいただいた資料を読み直していたとき、それのヒントになるかもしれない興味深いやり取りを見つけた。それは、「ラメール」という雑誌における「海底は動いているか」という、星野通平東海大学地質学教授(当時)との対談(1982年11月号)である。

 かなり激しい議論になっているが、その中で星野氏は、「プレート・テクトニクスによって、地震予知ができるのか、石油が見つかるのか」という点を繰り返し問題としている。

 もしかすると、その時以来、地震予知は上田氏の頭の片隅に残っていたのかもしれない。そして後年、VAN法という地震予知法に出会ったとき、これだ、と思ったのかもしれない。

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