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2010年12月

2010年12月31日 (金)

日本で学者たちと議論 その2

  上田誠也東大地震研名誉教授

 今回の訪日最大の収穫は、上田誠也教授と会えたことである。上田氏について、そして私との関わりについては、「清張氏の、守られた約束 第4章」に詳しい。その部分のブログへの掲載は、現在のペースからすると、まだまだ先のことになりそうなので、上田氏についての概略をここでも記す。

 上田誠也氏は、1964年に「地球の科学」(竹内均氏との共著、NHKブックス)、1971年に「新しい地球観」(岩波新書)を出版した。

 ウェーゲナーの大陸移動説は猛烈な反対に曝(さら)され、1930年の彼の死によって、説自体もほとんど死んだ状態になっていた。それを復活させたのは、イギリスの古地磁気学の研究者たちであった。古地磁気学とは、岩石の磁化から、地質時代の地磁気の歴史を研究する学問だ。

 たまたま岩石の磁化が外部磁場とは逆向きになる特異現象(反転熱残留磁気)を発見して、その方面の研究をしていた上田氏は、当時イギリスに留学した。まさに、大陸移動説復活劇の舞台にいたことになる。それをまとめた「地球の科学」は、書き方の平易さもあり、当時大きな反響を浴びた。

 この本は英文に翻訳され、3年後の1967年に、サンフランシスコの出版社からタイトルを変えて出版された。金森博雄氏も手入れに参画し、共著者として名を連ねている。帰国子女でもあった金森夫人が翻訳を担当した。上田氏も金森氏も、共に東京大学助教授であった。初々しい。

 英語版もまた好評で、ロシア語、中国語、イタリア語、ポルトガル語、韓国語など多くの言語に翻訳され直し、世界中に広まった。つまり、その種の本としては、世界に先駆けたものだったわけである。おそらくは、日本語版の方が先に出た科学の普及本の、数少ない例であるだろう。

 7年後の「新しい地球観」の方は、大陸移動説復活からプレート・テクトニクス出現にいたるまでを扱っている。これもまた英文に翻訳され、同じ出版社から1978年に出版され、同様に、世界各国語に翻訳され直した。ただしこの場合、日本語版も英語版も、著者は上田氏だけである。

 1989年には、「プレート・テクトニクス」(岩波書店)という、学生や研究者向けの本を出版している。翌年には定年退官しているので、研究の集大成だった、とも言える。

 このようにして、大陸移動説復活からプレート・テクトニクス説まで、すべての動きをカバーして、この分野における世界的な権威として認められ、数多くの賞も得た。1990年に東京大学地震研究所教授職を退官して名誉教授となるまでは、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)、押しも押されぬプレート・テクトニクス説の大御所であった。

2010年12月23日 (木)

日本で学者と議論 その1

失敗はチャンス

 私は、9月20日から11月1日までの6週間、日本に行ってきた。

 この3年ほどは、年に1回、そして今年は2回、日本に行っている。最初は、米国のパテントを取得した世界地図を実用化するため、その翌年は、別の新しい特許を日本でも出願するためであった。そして今年の春、現在このブログで連載中の、「清張氏の、守られた約束」の原稿を書き上げ、自費出版でもいいから出版化したい、というつもりで日本へ行った。

 特許出願以外の全ての目的は、失敗に終わった。誰も、世界地図の商品化で儲かると思うものはいなかったし、出版の方も、持ち込み原稿を受け付ける時代ではなくなっていた。ほとんど全ての場合、受け付けの若い女の子が、頑として取次ぎを拒否した。門前払いである。

 しかし、そうした失敗の数々により、私がめげることはない。失敗が時として、別の手段を思いつかせてくれたりもするからである。ある方法で成功すると、人はその成功パターンを繰り返す。もしかすると、他にもっと良い方法があるかもしれないのに、成功パターンを繰り返している間は、他の方法を試す気にならない。したがって、失敗こそはより良い方法を気付かせるチャンス、であるかもしれないのだ。

 この秋の訪日も、半年前のある個人的な失敗がきっかけとなって、計画が立てられた。そして母もまた、春先に転倒して右手を骨折したことで、その時に予定していた訪日を半年遅らせなければならなかった。89才になる母は、車で30分ほど離れた所に住んでいる。

 最初、母に合わせて3週間強、日本に滞在する計画を立てた。もしも日本でまた転倒した場合、私が日本にいれば、何かの役に立てるかもしれない。

 別の旅行社から、別の時期に予約を入れたにもかかわらず、行きも帰りも、同じ列の座席が取れた。考えられないような偶然であり、幸運に思えた。

 ところが私は、その予約をキャンセルしてしまった。ウェブサイトの値段の動きから見て、もっと安くなりそうに思えたのだ。しかしそれは失敗だった。安くなるどころか、帰りの便の、その値段のクラスの席は、全くなくなってしまった。

 困って母に相談したところ、「一緒の便で帰ってくることはないわよ」と言う。この母の言葉により初めて、私は、母の滞在日程にとらわれる必要がないことに気付いた。

 私は、私と妻との滞在を、いつも通りの6週間に延ばした。そしてそれにより、私たちの滞在日程はずいぶんと余裕あるものになり、学者たちと会うことが可能になった。

2010年12月12日 (日)

清張氏の、守られた約束 その18

  清張氏は弱い者に優しかった

 こうして冒頭に述べたように、清張氏に会い、私の説について語り、初めて理解してくれる人と出会った、と思えた。いま振り返ってみても、その後も長々と続く雌伏ばかりの私の人生の中で、あの時の数時間は、最も明るく、きらめいて思い出される。あれほどに興奮した時が、他にあっただろうか? とすら思う。

 私がそれほどまでに感動したのは、私の説の理解者が、戦後という時代における最大の巨人の一人だったから、というだけではない。彼の言葉の端々に、心の優しさ、温かさを、私は感じ取った。たとえば、「君がせっかく苦労して作った本を……」とか「アメリカでは絶対に食べられないだろうから……」、あるいは「君、稼がなきゃあ駄目だよ」などの言葉を聞いたとき、春の日のぬくもりに包まれているかのように、私は思った。その心地よさが、説の理解者を得たという喜びを、倍にも三倍にも高めた。

 清張氏は、相手によっては非常に厳しい人だったとも、親しい編集者には駄々っ子のようであった、とも言われる。しかし、私のような弱い立場にある者に対しては、限りなく優しかった。単なる優しさではなく、慈愛、というべきかも知れない。

 しかも、そうした慈愛を感じるような体験は、その時だけのものではなかった。その後も、さらに大きなぬくもりを感じることになる。清張氏のそうした一面を広く知ってもらうためにも、私の体験を書き残しておかなければ、と考えた。

2010年12月 3日 (金)

清張氏の、守られた約束 その17

  清張氏本人が電話口に

 そもそも、推理小説のフアンでもない私は、清張氏の作品を雑誌などで読むことはあっても、本を買ってまで読みたい、と思ったことはなかった。私が清張氏に手紙を書いてみる気になったのは、日本人の起源に関するビデオテープを見たからである。カセットデッキがまだ出始めた頃だったが、当時の私は事情があって、我が家に不釣合いな、高価な器械を持っていた。清張氏が出演して、邪馬台国についての推理を語ったとき、推理作家といっても仮想の小説だけではないんだ、と思った。もしもノンフィクションの分野にも興味を持っているならば、地球の歴史における謎にも、興味を持つかもしれない。

 1年ほどして、13年ぶりの帰国を突然思い立ったとき、そのことを思い出し、手紙を書いてみることにした。帰国の2~3ヶ月前のことだったが、返事はなかった。

 日本で、一応電話をかけてみることにした。手紙が届いてないのかもしれないし、読んでないかもしれない。

「はい、松本ですが……」

 秘書でも出るのだろう、と予期していたところへ、驚いたことに、受話器から聞こえてきたのは、清張氏本人の声であった。清張氏はご自身で電話に出ることが多かった、と後になって知ったが、それにしても運の良いことであった。昼寝の習慣がある、とも後で知った。もしも他の誰かが出たとすれば、私のような縁もゆかりもない者の依頼を、取り次いでくれたとは思えない。

「2ヶ月ほど前にお手紙差し上げた篠塚という者ですが、地球の大陸の起源について、先生に、私の話を聞いていただきたいのですが……」

「僕はね、忙し過ぎて、そういう話を聞いている時間がない」

「ごもっともです。それはよく承知しております。またカリフォルニアに戻りましたら、もう一度お手紙させていただきます」

「僕も近々、カリフォルニアに行くかもしれない。カリフォルニアはどの辺りかね?」

「フォスター・シティという、サンフランシスコ近くの町です」

「それはロサンゼルスからも近いかね?」

「いえ、サンノゼからだとそう遠くはありませんが、ロサンゼルスとは、車で7~8時間は離れています」

「………」

 しばらくの間があった。予定表を覗いていたのかもしれないが、迷っていたのかもしれない。だとすれば、重要な間であった。

「5日後に、町に出る機会がある。その時になら、10分ぐらいは会えるかもしれない」

「はい」

「それでいいかね?」

「ええ、もちろんです」

 小おどりしたい気分だった。こちらからすれば、清張氏に会えるならば、たとえ5分、いや1分であっても良かった。雑誌などで近況を知るだけの、我々とは遠い、巨大な存在であった。

 それからの指示は、細かいものであった。どこどこのビルを左に曲がって、何々の店を右に曲がって、と具体的である。アメリカで、通りの名前と家の番号だけで事足りている身には、日本の人たちは親切だ、と思う。こんなに偉い人でも、道案内のためにこれほどに時間を割くのか、と思った。

 約束の日に、千駄ヶ谷にあった「霧プロ」の事務所のドアを開けると、隙間から、会議中の男たちの姿が見えた。後から考えると、その一人は、野村芳太郎監督であったかもしれない。

 私は約束の時間を2時半と聞き、わざわざ新宿で寄り道をして、時間を潰したのだが、あれは単なる聞き間違いで、清張氏の言う通り、2時が約束の時間であったのかもしれない。会議の前の数分間だけ、会う予定にしていた可能性もある。そうだとすれば、私の勘違いは、結果的にかえって幸運であった。

 事務所からは、林さんが出てきて、5分近く離れている喫茶店「ルノワール」まで案内してくれた。目の前をすたすたと早足に歩き、言葉を交わしたわけではない。しかし、遠くまで案内してくれたこと自体が、アメリカでは絶対にあり得ないことであり、新鮮だった。

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