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2010年11月

2010年11月29日 (月)

清張氏の、守られた約束 その16

  小説になるのを待つ辛さ

 私は、誰にでも話したい気分になっていた。帰りの機内で、若い女の子と隣り合わせになった。そう遠くはないサンノゼという町に、語学留学するのだという。何かのきっかけで会話が始まった後、清張氏との出会いについて、話したい、という欲求を抑えることはできなかった。

 帰宅してからも、興奮は長く続いた。妻には勿論のこと、友人知人が家に来たりした度に、同じ話が繰り返された。しかし興奮が収まった後、次第に辛くなってきた。いつ小説にしてくれるのだろう? どのような形で? 待つ身の辛さとはよく言ったものである。

 たまたまその頃、「あめりか物語」という、日本人移民のドラマが放映され、サンフランシスコ日本人社会の話題になった。しかもその当時、強制収容所に日系二世を収容したことで、アメリカ政府に謝罪と、2万ドルの賠償金を要求する、という運動も重なった。「あめりか物語」を放映したのは、まさにそうした時代の雰囲気にぴったり、タイムリーなことであった。

 それをさらに盛り上げるため、ドラマを放映した日本語テレビ局が、自主制作の討論番組を作ろうとしていた。たまたまあるパーティーの席上、その局の女性アナウンサーと隣り合わせた私は、ドラマに対する感想を述べた。

「日系人は強制収容所に入れられた被害者だ、と言っているみたいだけど、それはおかしい。当地の一世たちに訊くと、収容所時代は楽しかったと、かえって懐かしんでいる人の方が多いです。それまでは働き詰めで趣味も持てなかったのに、収容所の中では日本人が思い思いにまとまって、いろいろなサークル活動をしたそうです」

「それは私も、聞いたことあります」

「もしもあの戦争の時代、日系人が巷に放置されていたとしたら、迫害を受け、大変な思いをしたはずです。また、もし日本に送り返されていたとしたら、徴兵されたり、爆撃を受けたり、戦中戦後の飢餓を体験したり、もっと悲惨だったはずです。鉄条網の施設に収容されたという、外に現われた形からだけで、日系人は被害者だった、と政府に謝罪を要求したりすべきではない、と思う」

「その話、テレビカメラの前でも同じように言えますか? そういう意見って、個人的には結構聞くんですけど、公けの場では誰も言えないんですよ。この辺りの日本人にとって、日系社会は結構狭いみたいで……」

「もちろん。私が正しいと信じていることですから、どこででも話せますよ」

 と私は胸を張った。

 しばらくして、テレビ局のスタジオへ呼び出された。討論の相手は、日系市民協会の活動家でもある二世だった。日本語も話すが、英語の方が強く、確かその当時、地方の町の職員をしていたと思う。

 司会兼まとめ役は帰米二世。戦前は早稲田に留学し、おかげで戦争にまき込まれ、米国に帰ってこれなくなった。戦後になってから戻ってきて、やがては、サンフランシスコ邦字紙の社長になった。

 収録は短いものではあったが、激しい議論が交わされ、局のディレクターが大喜びした。討論は、反対意見がはっきり対立しているほうが、活気が出るもののようである。

 その後、意外なことが起こった。論敵である相手の二世が、一緒に食事に行かないか? と誘ったのである。その当時はまだ、日本的な感覚が完全に抜け切ってはいなかったので、考え方の違う相手と、一緒に食事したって面白いことはない、と思っていた。ところが、二世を含めアメリカ人は、議論は議論と考えるらしい。

 食事中、もはや議論になることはなく、3人の和やかな会話が続いた。それがきっかけとなり、後に、司会を務めた新聞社社長の邦字紙の、地方通信員を引き受けることになった。他の通信員が健在だったために、冠婚葬祭の報告などからは免れ、私は自由にテーマを見つけて、コラム記事にして送った。レポーターの真似事みたいなものだったが、書くために調べるというのが面白く、のめり込んだ。司馬遼太郎氏の「アメリカ素描」を扱ったこともある。墓場や葬儀社についてまとめたこともある。癌について調べ、マクロビオティック療法なるものがあるのも、そうして知った。

 清張氏の、「稼がなきゃあ駄目だよ」の言葉には背くことになったが、おかげで、待つ辛さは紛れた。

2010年11月25日 (木)

清張氏の、守られた約束 その15

  君、稼がなきゃ駄目だよ

 コースの料理が次々と出てくるあいだに、私に対する学者の対応などが、更に詳しく訊かれた。答えるのに忙しくて気付かなかったが、いつの間にか、直角に曲がったカウンターの、林さんのすぐ隣に同じ年恰好の若い女性が、そしてその隣に、立派な身なりの二人の中年男性が坐っていた。一人は縦縞、もう一人はプレーン、どちらも立派な仕立ての濃紺の背広に、似合いのネクタイを着用していた。その時になって気付いた。私はまだ、背広をバッグに入れたままだった。

 サンフランシスコ湾の5月は、日陰に入ると寒かったりする。空気が乾燥しているために、目に見えない汗が、皮膚からどんどん熱を奪うようである。日本から初めてサンフランシスコに着いた頃は、初夏だというのに体が慣れないせいか、寒くてたまらなかった。今度は逆に日本に来て、空気が湿気を含むからだろう、なんでもない日差しなのに汗をかいた。

 それにしても、りゅうとした斜め向こうの紳士達に比べ、ワイシャツの袖をたくし上げた、私の姿はみすぼらしかった。

「先生、これを……」

 という林さんの小さな声がして、2枚の名刺が手渡された。

 清張氏は、それを右手に持って見ている。覗き込むと、参議院議員、○○委員長の肩書きが見えた。中堅の議員たちと、その秘書であったのだろう。清張氏は無言で、名刺を右のポケットに仕舞いこんだ。そのとき私の角度から、掌が名刺を握り締めたように見えた。その後で、左のポケットから私の名刺を取り出し、訊いた。

「アメリカで、ガーデナーというのはどういう仕事かね?」

「日本の庭師というのは庭も造ったりするみたいですが、カリフォルニアでは、庭造りをしないガーデナーの方が多いです。気候が良いので芝生の伸びるのが速く、週に一回は刈る必要があります。それで、それを毎週刈るだけの者もいます。月いくらの契約で、芝刈りの他に生垣の刈込みや草花の手入れをする、というのが、カリフォルニアのガーデナーの一般的な姿です。

 私の場合は、近くの町の公園に立派な日本庭園があり、そこの庭園管理助手から始めたもので、日本庭園について、日本の庭師の技術について、興味は持っていました。それで、松とバラ、日本庭園と西洋庭園の、象徴となる木と花とを名前に取り入れ、名刺のような、Pine & Roseという名前にしてみました。でも、それで日本庭園を持つ客が増えたということもなく、相変わらず、芝生刈りと庭掃除が主な仕事です」

「それで、収入は結構あるのかね?」

「他の日本人ガーデナーは地方出身者が多く、根性もあり、よく働き、大きな家を建て、趣味にも精を出して、という人たちが多いのですが、私の場合はどうも……。『浪人の傘張り』だという意識が抜けないだけではなく、もともとがサラリーマンにも、商売人にもなれないような、生活能力のない男ですから……」

「ふーむ」

 その後も雑談は続き、コースの食事が終わった。清張氏が会計を済ませるのを玄関先で待っていた私が、「ご馳走さまでした」と頭を下げるのに対し、

「君、稼がなきゃあ駄目だよ」

 絶妙のタイミングであった。

「はい」

 私は、苦笑しながら大きな声で答えた。

2010年11月18日 (木)

清張氏の、守られた約束 その14

  君の話を小説にしてみよう

「君の話を、小説にしてみよう。君の書いたあの本を参考にして、かなり引用することになるかもしれないが、構わないかね?」

 最初の突き出しが目の前に並んだ頃、清張氏は私に訊いた。

「ええ勿論です。私としては、沢山引用していただけるほどありがたいです」

 そのことは念を押して訊かれた。盗用ということを恐れるからだろうか。何か嫌な経験をしたことがあるのだろうか。どうせ売れる当てもない本である。全文書き写されたとしてさえ、文句はない。当代一の流行作家に、小説のモデルにしてもらえるだけでも嬉しいことなのに、私の文章をそのまま引用されたとしたら、かえって光栄なことである。私の文章が、彼のレベルのものとして使える、ということだからである。

「殺人事件に絡ませる方が良いだろうと思う。読者は、殺人だというともっと興味を持つからね」

「はあ」

 そんなものかなあ、と思った。

 どうやら、タクシーで移動するあいだに、ある程度の構想を考えていたようである。

「先生、私が工夫してみたものです。試してみてください」

 カウンターの中の板前さんが、我々の前に三つの小鉢を置いた。

 清張氏は、そんな特別扱いに慣れているのだろう。箸をつけようともしない。あるいは、構想を考えたりしている時に、邪魔されるのが嫌なのかもしれない。

「おいしいですね」

 板前さんに気を使って、私が一口食べ、代わりに言った。

2010年11月13日 (土)

清張氏の、守られた約束 その13

  清張氏に夕食を誘われる

「ところで君は、今晩何か予定があるかね? なければ、一緒に食事でもしようかと思う」

「一応、義理の弟と食事する約束にはなっていますが……」

「先約は大切に……」

 と言いかけた清張氏の言葉を遮って、私は慌てて反論した。

「いえ先生、私はいま彼の家に滞在中で、食事は、明日でも明後日でも良いわけですから。後で電話だけしておきます」

「じゃまあ……。どこが良いかな。浅草にある山芋の店はどうだろう。アメリカでは絶対に食べられないだろうからね」

「私は何でも食べられます」

「その代わりに、全ての料理に山芋がつくよ」

「先生、それはちょっと」

 脇にいた林さんが反対した。

「そうか、駄目かね。じゃあ普通の日本料理にしよう」

 清張氏が喫茶店の会計を済ませているあいだに、義弟に電話し、思わぬ展開になったことを報告した。

 外に出て、千駄ヶ谷の駅に向かって歩いた。後で考えると、何故逆方向に歩いたのだろう、と思う。まさか清張氏ほどに目立つ人が電車で行くはずはないから、駅前でタクシーを捕まえるつもりだったのだろう。

 清張氏は、ガードレールの隙間から車道に出て歩いた。それも、うしろから来るタクシーを探しながら、ほとんど振り返ったままで歩くので冷や冷やする。怖い情景をいろいろ想像し慣れているミステリー作家なのに、怖くないのだろうか。残されて林さんと並んで歩いていた私は、推理作家の意外な面を見て思った。案外せっかちなのかもしれない。

 そのせっかちさは、新宿の歌舞伎町で、タクシーを降りた地点でも見られた。降りてすぐ、清張氏は勝手知った町を行くかのように、タクシーが進入してきた道筋を戻った。林さんと私とは、まるでボディ・ガードのように言葉を交わすでもなく、2~3歩後ろを並んでついていく。

 対面から歩いてくる歩行者の目が、例外なく一点に集まり、私たちの脇でその多くが振り返った。清張氏にとっては当たり前の光景なのだろう。無人の原野を行くかのような速さで進んだ。

 100メートル、いや200メートルは行っただろうか、歩くのが遅くなり、首をかしげた。

「変だなあ、この辺のはずなんだけどなあ」

「先生どちらをお探しですか?」

「車屋という店があるはずなんだが」

「あ、先生、さっきタクシーを降りた目の前にありましたよ」

 それは偶然、千駄ヶ谷に行く前、時間つぶしに歩いていた時に目にした店でもあった。昼前に一軒出版社を訪れた後だったので、紺の背広にネクタイをしていたのだが、あまりに暑過ぎた。背広は脱いで、小さなバッグに押し込んだ。新宿に来たのは20年ぶりぐらいだろうか、歌舞伎町はどれほど変わっただろうか、と思いながら歩いていた時に、「スタンド割烹 車屋」という看板が目に入った。へえー、割烹でありながらスタンドって、どういう意味だろう、と不思議に思った。

 店内に入ると、片側にはバーのようなスタンドがあり、それ以外にテーブル席もあった。店の最も奥のカウンター席はL字型になっていて、三人が並んで坐れるようになっている。私が一番端の壁際に、清張氏がその隣に坐った。

2010年11月10日 (水)

清張氏の、守られた約束 その12

  金森博雄地震研究所長との論争

「この本出して、何か成果はあったのかね?」

 清張氏は再び私に顔を向けた。

「本は全く売れなかったですけれど、役にも立ちました。一年ほどしたある日のこと、サンフランシスコの邦字紙の片隅に、地震についての記事を見つけました。そこに、金森博雄カリフォルニア工科大学教授のコメントが、短く付いていたのです。

 私は手紙を添えて、私の本を大学気付で送ってみました。返事はなかったのですが、1ヶ月ほどして電話をしたところ、本は読んだ、とのことです。

 感想をお訊きすると、非常によく調べてあって感心した。後輩の水谷君が1ヶ月ほどうちに滞在していて、彼も読んだけど、我々からすると同じ所でつまずくんだ、とのことでした。それで、どこが間違っているか、直接お会いして、お訊きするわけにはいきませんか? とお尋ねしました」

 後輩の水谷君、とは水谷仁氏のことである。当時「新しい惑星の科学」という本を書いたばかりであり、たまたま、私も買って読んであった。後に名古屋大学の教授となり、現在では、竹内均氏が創刊した「ニュートン」という、科学雑誌の2代目編集長である。

 竹内均氏というのは、東大教授として、大陸移動説についての著書訳書も多く、大きな影響力を持っていた。金森、水谷両氏は、それぞれ竹内均研究室に関わっていたことがある。

 竹内氏は、東大を退官してから、ナショナル・ジオグラフィック誌のような、写真を多用した科学啓蒙誌を創刊したい、という以前からの夢を実現した。一時は、ニュートン誌の影響を受けた、視覚的科学雑誌のブームが起こった。

 金森氏は、後にカリフォルニア工科大学の地震研究所長になり、米国地震学会の会長にもなった。カルテックとも呼びならわされるその大学が、宇宙工学や地震研究の分野で、世界第一級の研究機関だとは、その当時の私は知らなかった。

「それでどうなった?」

「その後の日曜日に、金森先生の研究室を訪れることになりました。カリフォルニア工科大学というのは、ロサンゼルス郊外のパサデナという町にあり、サンフランシスコ近郊の私の町からは、飛行機で約1時間、空港からバスで更に1時間以上かかります。多分東京から岡山ぐらい離れていると思うのですが、朝出かけて、11時頃にはバス停に迎えに来ていただき、研究室に着いたらすぐ、議論になりました。結局、食事に出た時間も含めて4時間以上議論議論で、帰りのバスに乗ってからほっとしたせいか、頭痛があるのに初めて気付きました」

「それは良い体験ができた」

「ええ。金森先生には深く感謝しています。忙しい研究者が、バス停までの迎え送り付きで4~5時間も、しろうとの私に付き合ってくれたのですからね。ただ、私の本の間違いに触れられることはあまりなく、私が大陸移動説などの欠陥を攻撃し、先生がそれに答える、ということが多かったです。これには答えられないだろう、と思って繰り出した質問にも、一応の答えが返ってくるので、さすが地震学者であるだけに、ひょうたんなまずみたいに掴まえ所がない、などと、不遜にも思ったりしたものでした」

「一流の学者が、そう簡単に音を上げるわけもないだろう」

「全くです。私の仮説からすれば、地殻底に圧縮されて、地震波には固体として振舞うマグマ層が、どうしてもあるはずなのです。ところが地震学からすれば、地震はもっと深くの、マントルでも起こるとしなければならない。その点で、地震学者からすれば私の仮説など、絶対に受け入れられるはずもないのです。でも、4時間以上も私が攻撃できるほど、現在の学説に矛盾があるのも事実です。そのことで、私はかえって自信を持ちました。私の仮説は間違いかもしれない。しかし、現在の地球物理学の学説は、私の仮説以上に間違いです」

「これは面白い。君は地球物理学者全てを相手に論争を挑みたい、というわけだ」

 学者相手の論争を清張氏が何故面白がったのか、当時の私がわかっていたわけではない。

2010年11月 9日 (火)

清張氏の、守られた約束 その11

  清張氏の把握に驚く

 待つあいだ、通路の反対の4人がけの席に、成人の娘とその母とが、向かい合って坐っているのに初めて気付いた。

「カメラ持ってくればよかったね」

 母が娘に語った。その表情と言葉の響きの中に、清張氏に対する市井の人の愛情が読み取れた。

 清張氏が席に戻ってまもなく、先ほど喫茶店まで案内してくれた女性が現れ、清張氏の隣に坐った。貰った名刺には「霧プロ 林悦子」とある。

「君ねえ、地球の北半球には大陸が多く、大陸の端が南に向かって尖っているだろう。何故だか分かるかい?」

 清張氏が林さんに訊いた。

「分かりません」

 間をおかずに答えが返ってきた。

「それはねえ……」

 清張氏は私の説明のポイントをまとめて、林さんに伝えた。

 私は心の中で、あっ、と声を上げた。清張氏は黙って考えているだけのことが多かったので、よもや、これほど正確に把握している、とは思わなかった。しかも、「北半球に大陸が多い」という説明の仕方を、私はしていなかった。

 確かにその通りだ。私は、ヤスーンの落下地点はヨーロッパのどこか、あるいは北大西洋のどこか、そして多分、北極方面から斜めに落下した、と考えてはいたが、だから北半球に大陸が多い、とは結び付けていなかった。むしろ私の方が、清張氏に教えられた気がした。

 後になってそのことから、大陸を最も多く含む半球、すなわち、「陸半球」(第16図)との結びつきへと発展していく。

2010年11月 6日 (土)

清張氏の、守られた約束 その10

  自費出版の本を出したものの

「科学者が取り合ってくれないならば、なぜ確信を持つようになったのか、自分で書いてみることにしよう。ちょうど、月刊雑誌の広告で、講談社の子会社が自費出版の本を出してくれると知ったので、その手を思いつきました」

「出版社には持ち込まなかったのかね?」

「地球関係のいろいろな本を調べて、仕事の合い間に2~3年もかけて書き上げた原稿が、ボツになったら嫌だったので、最初から自費出版と決めていました。

 1976年の1月には書き上げて、航空便で送り出しました。小見出しの付いた校正用の原稿が送り返されてきて、手を入れてまた送り返し、などの過程を経て、その半年後に完成しました。1000部、約90万円かかったのですが、その分は東京の叔父に借り、だいぶ経ってから返しました」

「ふーむ」

「ところが自費出版というのは困ったもので、こちらが動かなければ、一冊として売れません。日本にいれば、本屋さんに置いてもらう交渉に駆けずり回ったかもしれませんが、アメリカに居てはそれもままなりません。叔父の家に大きなダンボールの包みが届けられたきり、物置に仕舞われたきり、になってしまいました。……これがその本です」

 と言いながら、私は、テーブルの脇に置いておいた青い表紙の本を差し出した。

「これを読めば、先ほどから君が説明してきたことが分かるのだね?」

「はい」

「それじゃあこれを、コピイしてもらうようにしよう」

「いえ先生、差し上げるつもりで持ってきているのですから」

「いや、君がせっかく苦労して作った本を、貰うわけにはいかない。それに、事務所の方での仕事も片付いた頃だろう。電話をかけてくる」

 そう言うと立ち上がり、喫茶店のカウンターの方へ歩いた。

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