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2010年9月

2010年9月26日 (日)

清張氏の、守られた約束 その3

  失われた月による大陸起源説

 その時代にはまだ知られていなかったが、木星の衛星にイオという特異な星があるのを、惑星探査機が発見した。そこいら中から火山が噴火していて、天体そのものが、軟らかい溶岩の塊でできているかのようである。

 清張氏への説明にもある通り、生卵を地面に叩きつけたとしたら、周りに三角の跳ねができる。北極点から北大西洋中央部に向けての軌道上を通過中の、どろどろの天体が落下したとすれば、インドやアフリカのような逆三角形の形状が、大陸の周りにできるはずである。

「月が落ちてくる、というのがおかしいじゃないか」

「いえ先生、あの月が落ちたわけではありません。まだ大陸のなかった原始地球の時代に、もう一つ別の月があり、それが落下したというわけです。本当をいうと、その天体が月、つまり、地球の衛星であった必要性もありません。地球の周りの軌道を回らずに、他所から直接飛び込んできた、としてもよいわけです。

 でも、『失われた月』という語感がなんともロマンチックで、私としては気に入っています。安夫のヤスと月のムーンとの合成で、その失われた月を『ヤスーン』と名付けましたが、ヤスーンは、少なくとも数回だけでも、原始地球の周りを周回した、と考えたいです」

 後になり、「月」という言い方に人が引っかかる、と知った。英語だと、地球の月はthe Moon、他の惑星の衛星はmoonsとなっていて区別できるが、日本語で「月」といえば、あの月だけと思われ易く、現在も天空にあるのに、何故落ちたと言い張るのだろう、と一瞬思ってしまうらしい。月、つまり衛星は、火星に二つ、木星や土星にそれぞれ60以上、太陽系全体で160以上はあるようである。そう説明すると、「ああ、そんなにあるのなら、一つぐらい落ちたって不思議はない」と納得したりする。

「なるほど。原始地球とやらは全面、水に覆われていたというのだね? その水はどこから来たのだろうか?」

「地球型の惑星、つまり水星、金星、地球、火星には、共通して、水が豊富に存在していた、と考えています。水星、金星は太陽に近すぎるため、水は蒸発してしまい、現在では全く存在していません。火星は逆に遠すぎるため、一時的な高温期をのぞいて、液体としては存在しなかった、と考えられます。

 地球だけが液体の水、つまり海を持ち得たわけです。しかも、現在の大陸の地形から推理すると、当時の南北両極にも、現在と同様な極の氷、つまり氷冠があったと思われます」

2010年9月21日 (火)

清張氏の、守られた約束 その2

  茶碗の上薬の垂れのように

 

「世界地図を思い浮かべてみてください。地図上の全ての地形は、北が広く、南が狭い逆三角形をしています。不思議だとは思いませんか? 北米大陸、南米大陸、グリ-ンランド、アフリカ、インド、インドシナ半島、オーストラリアの南の半島、全てがそうです。みんな、それらの先端が南に突き出しています。例外は、オーストラリアの北の半島だけです」

 そう言いながら私は、バッグの中から白紙を取り出し、世界地図の略図を描いた。

「ほほう、なるほど」

 清張氏は私の手もとの図を覗き込んだ。

「それは、もともとの地球に大陸がなく、海だけに覆われていたからです。そこへ、大陸のもととなる溶岩が降りかかってきました。その大陸のもとは、どろどろに溶けたチョコレートみたいなものでした。海洋だけの原始地球に降りかかったとき、水で急激に冷やされて、落ちた時の形をそのままにとどめました」

「何と。大陸は天から降ってきたというわけかね?」

「はい。地球にはその当時もう一つの月があり、それが天空で爆発し、溶岩状になって落ち、大陸になったのです」

「ということは何かね、この湯呑み茶碗にはないが、志野茶碗などによくあるだろう、上薬のたれが。ああいった物が垂れる、というのと同じかね?」

 私の前のコーヒー茶碗はとっくに片付けられ、白に青い模様のある、緑茶用の茶碗が置かれていた。

 溶岩が地球に降ってきたとして、北から南に垂れるということはない。北が上で南が下というのは、我々がそういう地図に慣れ親しんでいるからそう思うだけ、本当の下は重力の一番強い所、つまり地球の中心である。したがって、逆三角形の地形は垂れによってではなく、跳ねによってできたとするのが正しい。

 しかし私は、その答えを聞いて尚のこと感動した。自分の頭で消化して理解した、ということだからである。この人はいつもこのようにして、問題の本質を、ぱっと捕まえてしまうのだろうか。胸の内に大きな喜びが、じわじわと広がった。十数年にして初めて、私を理解してくれる人に出会った、と思う。

 

「はい、その通りです。確かに、茶碗によくある垂れみたいなものだ、と考えると分かり易いかもしれませんね。地上に落ちた溶岩は、どろっとしていたはずですから、固まるあいだに、跳ねたり垂れたりしたはずです。もともと、固い岩石状の隕石だけが地球に衝突する天体だ、というのが想像力の貧困なのであって、内部がどろどろの、生卵状の天体というのが沢山あったっていいはずです。特に太陽系が生まれて間もない頃は、内部が高温の、溶岩状になっている天体は多かったでしょう」

2010年9月17日 (金)

清張氏の、守られた約束 その1

第1章  推理作家の興味

  地球を舞台にした壮大な推理

 千駄ヶ谷にルノアールという喫茶店がある。1981年当時には、地下にも喫茶室があった。西口の階段を下りると踊り場があり、左手にガラス戸があった。ガラス戸の内部にも数段の階段が続き、床に達していた。

 私は、階段近くの4人がけの椅子に坐り、30分近く待っていた。何人かの出入りの人のあと、ガラス戸を引いて入ってくる人の姿を認めて、私は立ち上がった。逆光で表情までは分からぬものの、それは、まぎれもなく松本清張氏のものであった。週刊誌のグラビアなどで見かける顔は特徴的であり、見まごうべくもないが、体型だけでも、来ると分かっている者には容易に見分けられた。

 階段は、ステージにゆっくり下りてくる大トリの歌手の効果を与え、ガラス戸を通しての戸外の光は、仏の光背のようでもあった。私は、その時代における随一の、偉大な人気作家が登場する、その登場の仕方にも感動した。

 近くに来た清張氏は、黒っぽい背広に黒のシャツ、さすがに「黒い霧」などで有名な作家だけに、黒で統一しているのか、と思った。案外にスタイリストなので驚く。椅子の脇に達したとき、「篠塚安夫と申します」と言いながら、カスタマーにわたす仕事用の名刺をさし出した。「Pine & Rose Garden Service, Yasuo Shinozuka」とあり、住所も電話番号も全て英字だ。

 清張氏も、ポケットから無造作に名刺を取り出して私に渡し、すぐに椅子に坐った。名刺に肩書きはなく、「松本清張」とだけあった。肩書きの全くないその名刺を、格好いい、と私は思った。普通なら、「作家」とか、「何々会理事長」とか付けそうなものである。しかし考えてみれば、そんなものなど一切必要はない。顔パス、という言葉があるが、「松本清張」という名前を読んで誰だか分からない日本人が、その時代にいたとも思えない。

「2時の約束ではなかったかね?

「はあーっ? 2時半、とおっしゃったと思うのですが……」

「まあいい。それで、話というのはどういうことかね?」

 語気の中には、約束だから一応ここに来てあげた、しかし、話は早く済ませたまえ、という軽い怒りのようなものが感じられた。

「先生、地球を舞台にした壮大な推理があります」

「すると何かね? 君はぼくに、編集者を紹介しろ、というのかね?」

 怒りは更に高まったようである。

 その時になって、テーブルの上に置いておいた私の原稿が、誤解のもとになっていると気がついた。自費出版の本では長すぎて読んでもらえないかもしれないと考え、要約したものを原稿用紙にまとめてあった。

「とんでもありません。編集者に先生を紹介してくれと頼むことはあっても、先生に編集者を紹介してほしいと、考えたこともありません。先生が推理作家なので、言い方を工夫してみました。地球の歴史には大きな謎があり、それを解くカギが大陸の形に残されている、というわけです」

「ふーむ。というと?」

2010年9月15日 (水)

正距方位半球図法 その2

日本の真東は赤道の南に

 メルカトール図法によるもう一つの誤解は、方位、である。カリフォルニアは、日本の真東にあると思っていたが、とんでもないことであった。ハワイあたりが真東なのである。しかもその線をさらに辿っていくと、南米大陸に達する。チリのサンティアゴとかアルゼンチンのブエノスアイレスが、日本の本州あたりからの真東に当たるのである。 

 また、サンフランシスコの真西も、同様にして日本ではない。ニューギニアやオーストラリア西部である。ついでにサンフランシスコの真東は、首都ワシントンではなく、もっと南のマイアミになる。その先は、ブラジル近くの大西洋で赤道を越え、アフリカ南部に達する。

 この方位の不思議さについては、「大陸の世界地図」を作る段階で、2002年ごろに読んだ本で知っていたはずである。「地図のことがわかる事典」(田代博・星野朗編著、日本実業出版社、2000)の、それについての記述には、自分でつけた傍線までもある。

 ところがそのことの重要さには、後になって20086月ごろ、田代博氏のサイトhttp://yamao.lolipop.jp/map/map019.htm を読んで初めて気が付いた。

 こうしたサイトによるせいか、日本ではこの方位の問題は、かなり広く知れわたっているようだ。昭文社の「なるほど知図帳 世界2008」には、この真東の問題が出ているだけではなく、各地を中心にした正距方位図法が出ている。

 赤道を越えた南の国が真東だ、というのは不思議な気もするが、よくよく考えてみれば当然なのである。

 春分の日に、太陽は赤道の真上をぐるりと回る。その日の朝6時における、日の出の方向が真東なのだから、日本と赤道上の太陽とを結んだ線が、真東の方位線、ということになる。つまり、地球が球面であるために、赤道以外の全ての地点の真東は、赤道を交差するはずなのである。

 というわけで、メルカトール図法やその系統の世界地図が、世界の最短のコースや方位に対して、誤解のもととなっていたのである。航空機や人工衛星が飛び交う空の時代には、正距方位図法が、メルカトール図法に取って代わらなければならない。

 ところが、その図法の世界地図には重大な欠陥がある。中心から遠く離れた周辺部の大陸が、あまりにも変形し過ぎ、どこの大陸なのか分からないほどになる。東京中心の正距方位図法における南米大陸は、まるで、ボウフラか胎児みたいな、哀れな姿にさせられている。座右の地図として使うには、美しくない。

 私の特許出願中の世界地図は、正距方位図法のこの欠陥を正すものである。 

2010年9月14日 (火)

正距方位半球図法 その1

日本の特許も申請中

 金森教授の研究室で、私はもう一つの世界地図についても説明した。

「大陸の世界地図」は、私の仮説を説明するための最良の道具ではあっても、実用性、という面での利用価値はなさそうである。米国の特許庁から、交付の3ヶ月ほど前に、許可が下りるという通知が来た段階になり、初めてそのことに気がついた。

「大陸の世界地図」の中心点は、陸半球の中心点、つまりフランスのロワール川河口あたりから動かせない。それでは、地図の端の方に位置する多くの国々の住民(特に日本人)にとって、あまり利用価値はない。

 というわけで更に一年かけて、別の特許を申請し、この場合には、日本の特許も同時に申請するようにした。「大陸の世界地図」の場合、そのポイントは、私の仮説に有利な世界地図を得るための方法、ということにあったが、今回は仮説とは全く関係なく、新しい図法の提唱である。

 現在使われている世界地図の大部分は、赤道が中央に来るようになっている。それは、メルカトール図法が元になっているからである。そうした赤道中心の地図を見慣れた結果として、我々は、緯線に沿って世界を見る傾向がある。

 私自身かっては、ニューヨークに行く友人に向かって、「サンフランシスコに寄って行きなよ」と言ったりしたものである。東京からニューヨークへ行く場合、てっきりサンフランシスコの上空を通るのだ、と思っていた。

 昔の人がヨーロッパに留学するのに、何故シベリア鉄道を使ったのかも理解できていなかった。船賃よりも鉄道の料金の方が安いからだろう、ぐらいに思っていた。

 ところが正距方位図法の地図に慣れるようになって、東京からニューヨークへは、サンフランシスコではなく、アラスカやカナダの北端を通るのだと知った。また、シベリアからモスクワ経由でヨーロッパへ行くコースが、地表上を行く交通としては最短なのだ、とも知った。

2010年9月13日 (月)

大陸の世界地図 その2

大陸は今も一つながり

 球体の地球儀を平面の世界地図に移すには、壁に影絵を作るような方法を使う。つまり投影法である。私が思いついたのは、それとは全く違った方法に基づいている。ただし結果は同じで、出来上がった図は、正距方位図法の図であった。

 その方法とは、球体を押しつぶすことである。丸いボールを真ん中で押しつぶすと、高さが半分になる。実際のボールでは、厚みがあるためにそれ以降の過程は不可能だが、仮に、折り紙を折るように、次々に半分に折っていけたとすると、丸いボールは、昔のLPレコード盤のような、平たい円盤になるはずである。

 その後の過程は煩雑になるので省略するが、私の方法を使えば、たぶん、中学生でも世界地図を描けるのではないか、と思う。

 このようにして出来上がった大陸の世界地図は、私の予期していた以上のものであり、私を喜ばせた。オーストラリア大陸と南極大陸とが、ほぼ同じ大きさで左右にバランスよく並び、全体としては、大きな伝説の鳥、鳳凰が羽を広げて、満月の前を飛翔しているかのような姿となった。

 その図には、世界の山脈を描き入れた。すると、世界の全ての大陸は今も一つながりであり、山脈もまた全てが有機的につながり、大陸のバックボーンになっていた。

 ヨーロッパからヒマラヤを通り、アメリカ両大陸から南極大陸へとつながるこの巨大な山脈の連なりを、他の世界地図では分断されているために、イメージとしてつかめない。日本は、この主脈と平行な流れの中にあって、その一部となっている。つまり日本は、遠いヒマラヤ山脈と密接につながっているのである。

2010年9月12日 (日)

大陸の世界地図 その1

9710cimg0117 陸半球を中心として

 金森博雄教授の研究室で、昼食前の主要な話題の一つは、世界地図であった。2008219日、私は図のような世界地図で米国特許(7,331,790) を取得した。これは大陸の全体像を、最も適切な形でまとめたものである。

 中心に正距方位図法で求められた陸半球を置き、海半球側からの残された陸地を、分断されたそれぞれの地形が完成されるように並べ直した。ここで言う陸半球というのは、陸の面積が最大になるように赤道の位置を移してできる半球である。北半球は既にして大陸を多く含んでいるが、陸半球となるとそれがさらに強調される。とすれば、大陸を全体像として眺める最良の地点は陸半球の中心点であり、それを中央にもってくれば良い。

 最初からこのような図になるだろう、と予測していたわけではない。今でこそ、インターネットを探せば、簡単に陸半球の地図が見つかるが、私がアイデアを得た2001年当時、陸半球の定義は知っていても、図を見たことはなかった。

 そこで、どうしても自分で図を作らなければ、と考えたわけだが、投影法の専門知識のない者に、自分なりの世界地図が描けるとは思えなかった。15年ほども、誰か描いてくれる人いないだろうか、と思い続け、2001年になってやっと、自分で描く方法を思いついたわけである。

2010年9月11日 (土)

7月14日、カルテック研究室 その3

富士山が天から降ってきたとしたら

 そうした中での唯一の例外が、金森博雄教授であった。しかも優しい。私の感激ぶりが、納得してもらえるだろう。もちろん教授にとって、話の内容が難しいわけはない。しかし私の議論は、教授を初めとする殆どすべての科学者の主張を、真っ向から反論するものである。本来私は、相手にすべきではない敵のはずである。

 というわけで、電話やメールの段階で感激しっぱなしの私は、読んでいただいた原稿の内容には触れないようにしよう、と考えていた。いつもどおりの激しい議論になって、友好的な雰囲気を壊したくなかったのだ。

 和やかに食事して、2時過ぎ頃に食事を終わって、店を出る直前に発せられた教授の言葉で、議論しない、と決めていたつもりが崩れた。

「富士山が天から降ってきたとしたら面白いですね」

 この言葉のままでは、何の意味かは見当もつかないと思う。しかし私と先生との間では、この言葉だけで、何を言おうとしているのかがはっきりしている。火星や金星の火山群が天から降ってきた、という私の主張に対する痛烈な皮肉なのだ。

「先生、このまま議論なしで帰るわけにいきません。研究室に戻って、先を続けさせてください」

というわけで、その後またいつもどおり、4時半過ぎまで議論が戦わされた。

 火星の火山の話は、「清張氏の、守られた約束」の中でも簡単に触れている。詳しい話は、その原稿の、その箇所を紹介し終わった後になってからにしたい。

2010年9月10日 (金)

7月14日、カルテック研究室 その2

「清張氏の、守られた約束」の原稿

 この研究所訪問に先立ち、私が半年ほど前に書き上げた原稿を送り、目を通しておいていただいた。原稿のタイトルは「清張氏の、守られた約束」であり、私と清張氏との出会いを書き綴ったものである。それについての詳しい話は、この先すぐするつもりだが、自費出版ででも出したいと考えて訪日したにもかかわらず、出版化は難航し、結局断念することになった。

「清張さんとの話だけにするか、地震や地球科学の話だけにするか、どっちかに的を絞ってもらえるといいのですがね……」という出版関係者の話を伝え聞きもした。

 以前、「プレート・テクトニクス説は間違っていた」という原稿を書き上げたことがある。ある出版社が興味を持ったので、2年かけて書き上げたのだが、その2年の間に、出版不況は深刻化していた。編集者と直接会いもし、いかにも出版化が本決まり、という感触を得るまでの経過を辿ったにもかかわらず、その時も、それ以上には進展しなかった。

 その時の経験がトラウマともなり、次に書く時は易しくしなくては、と思い続けてきた。そこで、松本清張氏との話の中に、地球科学の問題などを忍び込ませるようにしたのである。  

 ところがそれでも尚、友人たちに読んでほしいと依頼して、誰一人として感想や意見を述べてくれた者はいない。やはりあれでもまだ難し過ぎるのだろうか?

2010年9月 9日 (木)

7月14日、カルテック研究室 その1

9610cimg0111_2 金森教授の暖かさ

 初めは、前日の7月13日(火)にお会いするはずだった。金森博雄名誉教授の研究室には、朝11時に伺うというアポをとり、それなりの予定を立てた。月曜日の朝出かけ、夕方にはパサデナに着いて泊まり、翌朝研究室へ。

 ところが3日前になり、先生からメールが入った。

「その日は1時半に予定が入ってしまった。そのため、11時に会って1時半まで、食事は簡単に済ませるとしても、時間が足りないように思う。その日もう一度4時ごろ戻ってくるようにするか、それとも来る日を変えるかしてもらいたい」という内容であった。

 1~2時間では時間が足りないだろうから、戻ってくるなり、日を変える方がいいだろう、という配慮を嬉しく思う。今まで研究室を訪ねれば3~5時間、が慣例のようになっていたので、1~2時間では確かに足りないかもしれない。しかし考えてみると、現役の学者であった当時の先生が、3~5時間も割いてくれた、ということの方が異常な厚遇なのであり、普通ならば、1~2時間もあれば十分なはずであった。

 今回は研究室において、随所に暖かさを感じた。私の世界地図についての話などを真剣に聞いていただいただけではなく、地震学者の情報や、連絡先なども、今まで以上に丁寧に教えてくれた。本を何冊か貸してくださり、プルーム・テクトニクス(いつか詳しく説明します)に反対の同僚の学者の論文などを、ネットですぐに探し、プリント・アウトしたりしてくれた。そうした一つ一つの行為の中に、私は、私の役に立ってあげよう、という金森教授の意図を察した。

2010年9月 7日 (火)

東大紛争のおかげで その4

“宝くじ”を引き当てたのかも

 このようにして、次第次第に、金森博雄教授の偉大さを思い知ることになる。しろうとの私が、誰の紹介によってでもなく、偶然に新聞の片隅で見かけたからということで手紙を書いてお会いした、というだけでも普通あり得ないことである。それは、私の長い活動が証明している。例外は他にもう一度、奇跡のような出会いがあっただけでしかない。 

 私が出会った初めての科学者が、そしてその後も十数回にわたって親しく会っていただけた教授が、世界的にもトップクラスの科学者であったとは、なんとも信じがたいような偶然であり、幸運であった。たった1枚だけ買ったくじが大当たり、だったようなものである。

 さらにその幸運は、東大地震研究所の紛争という、歴史的にも稀な、非日常的な事件によってもたらされたのだ、と思いを巡らせてみると、なお一層あり得ない確率であったとわかる。私は、“宝くじ”を引き当てたのかもしれない。

2010年9月 5日 (日)

東大紛争のおかげで その3

教え子たちから見た金森先生

 1997年の初めごろ、金森教授についての記事を立て続けに見つけて読んだ。一つは、朝日新聞の科学誌サイアス(1997-1-3)の、石田瑞穂日本地震学会会長(当時)についての記事の中である。

[……大学院を受験しようと決意する。物理よりもう少し自分に近いものを、と東京大学の地球物理を選んだ。その面接で出会ったのが、現在は米カリフォルニア工科大学地震研究所長の金森博雄さんだった。「研究室に入ってびっくり。こんなに生き生きと研究する人がいる。それを知っただけでもよかった」。ちょうど地震学そのものもプレートテクトニクス理論が体系づけられようとしていた時代。同期生には、現在、東京大学地震研究所教授の阿部勝征さん、島崎邦彦さん、神戸大学理学部教授の石橋克彦さん、2年上に地震研究所所長の深尾良夫さんらがいて、研究室は活気にあふれていた。……

 大学院時代は恵まれていたわけではない。地震研究所の紛争に巻き込まれ、十分な授業もなく、やがて金森さんはカリフォルニアへ去ってしまう。「ひとりでは何もできない。やめてしまおうか」。悩む石田さんを叱咤したのが、「指導教官がいなくなったくらいで論文も書けないようなら、もともと研究者として駄目なんだから、やめた方がいい」という元地震予知連絡会会長の浅田敏さんのことばだった。]

 もう一つは、「活断層とは何か」(池田安隆、島崎邦彦、山崎晴雄著、東京大学出版会刊、19961月)という本である。出版は前だが、私が買って読み出したのは、サイアス誌よりも後である。

[金森先生は34歳で東大地震研究所の教授となられ、当時の大学院生のいわば憧れの的であった。地震研究所の大学紛争時にアメリカに頭脳流出されてしまい、筆者の世代より若い世代が直接その薫陶を受けることができなかったのは、残念である。最近数十年間の地震学は、アメリカへ頭脳流出した二人の地震学者(安芸先生と金森先生)によって進められたといっても、それほど間違いではない。]

2010年9月 4日 (土)

東大紛争のおかげで その2

受賞後の新聞記事

 金森博雄教授自身に関しては、1993年、アーサー・L・デイ賞を受賞した後、新聞記事などで名前を見かけるようになった。当時は、衛星版の読売がまだ送られてきていたので、その中に4段組の、まあまあに大きな扱いの記事(1993-5-12)を発見した。また、偶然にも日本に行っていた時に、週刊新潮誌(1993-6-3)の「コーヒーブレイク」という欄で扱われているとも知った。

 読売の記事を読んだ後で、先生に電話をかけ、「おめでとうございます」と祝意を述べたところ、

「何のことかね?」と怪訝そうであった。アーサー・デイ賞受賞についてです、と説明すると、

「あれは数ヶ月前のことだし、近頃は、学者同士で賞のやり合いっこしているだけのことでねぇ、たいしたことではないですよ。……でも、けなされるのではなく、ほめられる分には、嬉しいですがね……」という、いかにも先生らしいコメントが返ってきた。

 その同じ年に、別の賞を貰った。カリフォルニア・サイエンティスト・オブ・ザ・イヤー賞である。その賞の歴代受賞者36名のうち12人が、後にノーベル賞も貰っているという。

 私がそのことを知ったのは、娘の友人が、ロサンゼルス・タイムズ紙(1993-11-16)の記事のコピイを、戸口に届けてくれたからだった。その友人は、金森教授が私にとってどのような存在であるかを知っていたからではなく、単に、日本人地震学者についての記事が出ているから、というので持ってきたのだ。

 アメリカの新聞記事というのは、日本の週刊誌並みに詳しい。金森教授の父、妻、子供についても書かれていた。

 後に、教授の父、金森徳次郎氏は憲法学者であったと、サンフランシスコの日本食レストランで一緒に食事したときに聞いた。研究室とは違って、畳の上でのくつろいだ雰囲気だったので、それ以外にもずいぶん個人的な話が聞けた。徳次郎氏は吉田茂内閣の国務大臣として、新憲法制定にも関わったとか、父方の祖父は、名古屋の指物家具職人だったとか。

2010年9月 3日 (金)

東大紛争のおかげで その1

世界的に権威ある大学 

 私が金森博雄教授に初めてお会いしたのは、前にも書いたとおり、33年前、1977年のことであった。当時の私は、それほどに偉大な科学者だとは全く知らなかった。地震報道の小さな記事に添えられた談話で、同じカリフォルニアに、日本人の地震学者がいる、と知れた。やっぱり日本は地震国だから、地震学も進んでいるんだ。日本の学者は、アメリカの大学からも引っ張りだこなのだろう、ぐらいに思っていた。

 そのとき以降、「先生、次のヴェケイションにディズニーランドに行くつもりなのですが、その時にちょっと寄らせていただけますか?」という調子でお願いし、本当に都合の悪いとき以外、断られることはなかった。しかも、立ち寄るだけのつもりではあっても、実際にお会いすると議論になり、たいていは35時間になった。

 たぶん10回以上お会いしたことになると思う。米国地震学会会長、地震研究所所長、だのの肩書きを知ることもなく、自然体でお会いできたのがよかったのかもしれない。最初の出会い方、議論の白熱化のせいもあり、こちらも肩書きを気にすることはない。後の方になると、若者言葉だと「ため口」、ということになるのだろうか、いつの間にかなれなれしい言葉遣いになり、「あっ、しまった」と思ったりする。

 1995年のこと、ニュースレターに書くつもりで、カリフォルニア工科大学に資料を請求したことがある。送られてきたものには、金森所長の略歴だけではなく、地震研究所についてのパンフレットが同封されていた。

 歴代の所長や所員の名前を見て驚いた。地震学に出てくる、その世界での有名人が何人もいた。グーテンベルグ、リヒター、ベニオフなどの名前を、あなたも本の中で見たことがあるかもしれない。ということは、カリフォルニア工科大学は、世界的に権威のある大学、ということなのだろう。

2010年9月 1日 (水)

金森博雄教授と再会 その4

尾池和夫前京大総長の挨拶

 このブログを書くために、ウェブをいろいろ探していたとき、京都賞受賞記念シンポジウムのサイトを見つけた。尾池和夫前京大総長の挨拶(2007117日)に、面白い箇所がある。

[カリフォルニア工科大学の名誉教授となられた後、名古屋大学客員教授となって、私が1年前の10月、名古屋の講演会に中日新聞に招かれて参りますと、安藤雅孝教授と一緒に真正面の席におられて、たいへん面食らいました。金森先生の前で、モーメント・マグニチュードの話や、津波の規模のことや、リアルタイム地震学のことを話すのは、なかなかたいへんなことです。]

 そこについている写真は、その挨拶の時のものであるかもしれないが、講演会の時の情景も同じであったに違いない。金森氏は、すぐ間近に座って、尾池氏を見上げている。

 ご自身高名な地震学者であり、京都大学総長(20032008)であった尾池和夫氏も、世界的な超一流地震学者の前では、“試験官の前で発表する学生”であるかのような気持がしたのかもしれない。

 こういう写真を見ると、責任の伴わない立場で自由に楽しんでいる、リタイア後の研究生活が推察されるのである。

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