2017年6月25日 (日)

日本国内旅行 その16

  支笏湖の水中柱状節理

 数ヶ月前、「支笏湖は最北の不凍湖だ」とテレビで言われているのを聞いて、調べてみる気になった。湖底の温度がマグマによって温められているのかと思ったが違った。水は4度で一番密度が高く、重い。そのため気温が零度以下になっても、湖底の温度は4度のまま。支笏湖は深く、4度の水をたっぷり溜め込めるので、カイロを抱えているような状態になるのだろう。次の春まで滅多に凍ることはないらしい。洞爺湖も同様に不凍湖なのだそうだ。

 そのついでに更に調べていたら、支笏湖の水中に柱状節理があり、観光船で見れるらしいと知った。支笏湖は火口に水が溜まったカルデラ湖である。柱状節理が湖底にあるということは、噴火口の溶岩が固まって柱状節理が出来た後、そこに水が溜まったことを意味する。外輪山から流れ込んだ可能性もなくはないが、ほぼ間違いなく、火道起源だったと断定できそうだ。

 ネットを探すと柱状節理のでき方についての殆どの説明は、溶岩流が固まる時、上から下へと冷えていくのに従って亀裂ができる、となっている。それに対して私は、柱状節理の出来方には色々なパターンがあり得るはずだということで、何回も繰り返し扱ってきた。

 以前も書いた(日本国内旅行 その3) ように、韓国慶州市の菊花型石や根室の車石は、ドーム状半球状の中心から放射状の柱状節理が並んでいる。これなどは溶岩が小さな穴から湧出し、プクーッと風船のように膨らんで出来たと推測される。海底に、枕や俵が積み重なったように見える枕状溶岩が多く見つかる。車石はそれらの一種と見ることもできるだろう。これらのドーム状柱状節理やデビルズタワーを、溶岩流や貫入岩で説明することは不可能だと思う。支笏湖の水中柱状節理は、溶岩流起源ではないもう一つの事例である。

 以前何度か読んだことのある、火山学会の「火山学者に聞いて見よう」というサイトを、今回もう一度読み直してみた。するとそのサイトに、「ハワイの火山の溶岩湖では表面にも柱状節理が現れましたが、通常のガサガサした溶岩流の表面には柱状節理は現れません」という石渡明氏の言葉が出ている。何のことはない、「溶岩湖」起源の柱状節理が、学者の言葉の中にあった。以前は読んでいながら、その言葉の重要性に気付かなかった。

 これも繰り返しになるが、溶岩流起源、火道起源、溶岩湖起源の柱状節理の他に、「移動」を反映した柱状節理があるはず(日本国内旅行 その4)、 というのが私の昔からの考え方である。その時にも書いたように、越前松島の牛の角型の柱状節理を、「移動」という考え方無しで説明するのは、非常に困難であると思う。

 ヤスーン仮説によれば、大陸のおおよその形が定まった後になり、重い玄武岩マグマが分離して滲み出す。海洋底をひたひたと進む玄武岩溶岩は、中央海嶺の位置まで進んで止まり、大陸と相似の地形を形作った。このような仮説の全体的イメージから予測されるのは、水平な柱状節理の存在である。しかもその節理は、大陸から中央海嶺への動きを反映して、金太郎飴を横に並べたようになっているはずである。中央海嶺近くの海洋底が掘削されるようになった時、私の説の当否が決定される。

2017年5月25日 (木)

日本国内旅行 その15

  円錐形火山についての考察

 先日、自分で撮った日光での写真を見ていたら、右の写真があった。柱状節理層の先の方を見れば明らかなように、層下部から滝が出ている。それは、日光華厳の滝周辺の柱状節理はやはり溶岩流起源であった、ということを意味している。Cimg0673

 私自身、現場で当然そのことに気付いたはずである。柱状節理が火道起源だとすれば、それはかなり下方の、マグマ溜り辺りまで続いていなくてはならない。それなのに私は、書いてまとめるまでの数ヶ月の間に、その現場での思いをすっかり忘れてしまったようだ。しかし……と、火道起源説にこだわりたい気持ちが今でもなくはない。火山の溶岩流は、一度に全方向に流れ出るものではないからだ。下の観瀑台脇の柱状節理層と、少し先の滝とでは、時期も成因も違っている可能性がある。

 カムチャッカ半島にクリュチェフスカヤ山という火山がある。富士山より1000メートルも高く、ユーラシア大陸最高の活火山である。テレビでその山の映像(世界の名峰 グレートサミット 2012年) を、初めて見て衝撃を受けた。広重の浮世絵にある誇張された富士山のように、傾斜が急な円錐形をしている。しかもその頂上から、真っ赤な溶岩がほぼ直線状に流れ下っている。

 最近になって柱状節理の問題を考えているうちに、あのクリュチェフスカヤ山からの溶岩流を思い出した。溶岩流は局所的であり、山体全体をくまなく覆った訳ではないのだ。円錐形の山体を作ったのは、頂上から噴出した火山灰や噴石だったと思われる。だとすると山体の大部分は、石炭のボタ山のように、ふんわりと積み重なった組成をしていることだろう。とすれば、マグマ溜りから上昇してくる溶岩は、密度の粗い山腹の堆積に、なぜ新たな火道を作らないのだろう? 事実富士山は、宝永火口のような側火口を作った。クリュチェフスカヤ山において、今も尚、5000メートル近い山頂から溶岩を噴出させるものは何なのだろうか?

 おそらく、火口の溶岩が絶えず下から供給され続け、高温のまま保たれているのだろう。もしかすると、恒常的に溶岩湖状態になっているかも知れない。冷えて溶岩の供給が途絶えると、溶岩は固まって岩石になる。その時に柱状節理になり、栓になる。噴火口に水が溜まっているようだと、その傾向は更に強まる。錦江湾や芦ノ湖では、湾や湖の中央部から新たな噴火が起こる可能性は低く、その周辺部に新しい火道を作って外輪山となる。クリュチェフスカヤ山のような高い円錐形火山は、条件が色々揃っていなければ存在し得なかったことだろう。

 さて、話を華厳の滝脇の柱状節理に戻す。それが溶岩流起源であるのか、あるいは火道起源であるのか、今はまだ決定出来ないものの、研究が進むと将来明らかになる可能性がある。溶岩流起源だとすれば、溶岩流の痕跡が男体山の頂上方向へと続いているはずだし、火道起源ならば下方へと続いているのでなくてはならない。また、溶岩流が1方向だけにしかないとも考え難い。男体山の山麓に、溶岩流の厚い層があるはずである。やがて音波探査などの新技術により、地中の柱状節理を簡単に発見できる日が来れば、と願っている。

2017年4月25日 (火)

日本国内旅行 その14

  公害の山が中禅寺湖の隣に

 奥日光湯元から中禅寺湖駅にバスで着いて、その後すぐ半月山行きのバスに乗り継ごうかとよほど迷った。その路線の最終便が30分後に迫っていたからだ。結局ホテルへのチェックインを優先して、バスは翌朝に回した。

 翌朝8時40分発の始発に乗った。時間が早いせいもあってか4~5人の乗客しかいず、30分の乗車時間半分を過ぎた辺りからは、我々の他たった一人になってしまった。終点に近付いた頃、「次の角を曲がると左手に富士山が見えますよ」と運転手さんから声をかけられた。これはありがたい、と思った。こちらから声をかけるのはためらわれたが、この運転手さんになら色々質問しても良さそうだ。運転手さんからの情報は現地での最良のものであり、貴重である。

 終点は広い駐車場になっていて、半月山の頂上ではない。ホテルのチェックアウトの時間が迫っているためもあり、乗ってきたバスが折り返し戻る出発時間までの、わずか10分しか余裕がない。駐車場の周りの柵に沿って、ゆっくりと景色を見て回った。

 向かいの尾根の山肌が禿げていて特徴的である。日本のグランド・キャニオンと呼ばれたりもするらしい。しかし緑の全くないグランド・キャニオンよりは、カウアイ島のワイメア・キャニオンにもっと似ている、と思った。カウアイ島の東側は世界一の雨量を記録した地点もあるほどの多雨地帯だが、西側は反対に乾燥している。そのために、太平洋のグランド・キャニオンとも呼ばれる景観が出来上がった。

 駐車場の中央に何故かトロッコが置いてあり、「足尾銅山観光」の碑銘のある大きな岩が脇に置いてあった。「隣り町の観光もよろしく」という意味なのかも知れない。「足尾銅山」の名前を見て、山肌の禿げの意味を理解した。以前、「足尾から来た女」というテレビドラマを見たこともあり、公害の被災地に植林しているというドキュメンタリーを見たこともある。以前から公害の原点の地ぐらいの知識は持っていたものの、それがどこにあるのかのイメージはなかった。テレビ番組を見た後も、関東のどこからしいという程度の、遠くの地方の話に過ぎなかった。

 それが、日光のすぐ隣りにあるとは意外であった。世界遺産の裏に負の遺産があることになる。中禅寺湖の水が足尾側に漏出していると、調べている間に知りもした。日光観光だけのつもりが、もう一つ予期せぬ収穫を得た気がした。

 帰りのバスの中での運転手さんとの会話から、半月山の路線は季節限定であると知った。紅葉期目当てのスケジュールは、つい最近始まったばかりだとも。山が紅葉で彩られるようになると、バスの客も満員、道も車で一杯になるという。10月初旬でガラガラなのに、もう1~2週すると満員になるとは信じ難い。テレビや新聞が紅葉の始まりを報道すると、人の波が押し寄せるらしい。

 日光駅前から湯元まで、通常は2時間のコースに8時間かかったこともあるという。前日実際にそのコースを辿り空腹と喉の渇きを体験した私には、その大変さの片鱗がほの見える。トイレに行きたくなったりしたらどうするのだろう?

 私が今夢中になっているものが、一般的にはさほど人気のない地質学的な問題であり、紅葉とか風光明媚とかでなかったことでしみじみ良かったな、と思った。

2017年3月25日 (土)

日本国内旅行 その13

  華厳の滝下に隠れ"ナイアガラ"

 グーグルアースで見ると、華厳の滝の周りの崖は馬蹄形にえぐられている。さらに仔細に見ると、崖の中段には境界の白い層がある。馬蹄形の崖には数多くの滝があり、その殆んどが白い層の辺りから滲み出ている。

 仮に白い層から上の岩石全てを取り去ることが出来たとしたら、平らな台地が現れるはずである。その上を浅く広い川が流れ、丁度ナイアガラのような馬蹄形の滝となって落ちる。つまり華厳の滝の下には、ナイアガラと同様な川が隠されているのだ。

 中禅寺湖の湖尻から流れ出た水は大谷川(だいやがわ)となり、クランクシャフト状に折れ曲がり、華厳の滝の滝口に達する。ところが馬蹄形の北壁から滲み出る殆んどの滝の位置は、湖尻から一直線の関係にある。折れ曲がっている地表の川の流れとは無関係に、地下の川は直線状に、華厳の滝から北壁にかけての広い一帯を流れていると思われる。これは、流れるというより溢れるというに近い。源泉かけ流しの温泉で、浴槽縁のタイル上から溢れる湯のようなものだろう。

 華厳の滝北壁のもう少し下流には、この一帯で一番大きな白雲(しらくも)滝もある。グーグルアースだとかなり高い位置から湧出しているように見えるのだが、この滝も華厳の滝の中段から流れ出る十二滝と同じ高さであり、水もまた中禅寺湖起源であるらしい。

 ネットで見つけた早川裕一氏の論文「日光、華厳滝の後退速度」によれば、華厳の滝の水量は中禅寺湖から流出する量の19%に過ぎない。それに対し十二滝の水量は36%、白雲滝は37%だそうである。とすれば見かけの雄大さとは裏はらに、地上の華厳の滝よりも、地下の川の方がはるかに大きい、と言える。

 華厳の滝周辺の地下において、どのような流路が形成されているのだろうか? それについての研究は既に存在するのだろうか? もしもないようならば、誰かが行って欲しいと切に願う。流路の姿が分かると、透水層及びその直下の不透水層の広がり方が分かり、その下の下部安山岩層の姿も見えてくる。

 十二滝他の滝の下に下部安山岩層があるということは、中禅寺湖生成の歴史をもう一段複雑にしている。中禅寺湖は2度にわたって、溶岩でせき止められたのだ。いやもしかすると、もっと複雑だった可能性もある。下の観瀑台のすぐ近くには涅槃(ねはん)滝があり、その湧出地点をグーグルアースで探すと、十二滝、白雲滝とは別に、もう一層低い層があるみたいである。とすれば、中禅寺湖の成り立ちは一般に言われているほど単純なものではなく、複数回のせき止めによって形成されたのかも知れない。しかも最初のせき止めは、溶岩流によってではなかった可能性もある。

 そう考える私の根拠は、下の観瀑台脇の柱状節理である。今まで見てきた他所の柱状節理に比べると、ひびの隙間がなく、密な印象を持った。何故そういう差が生じたのだろうか?と考えると、地下で圧の加わった状態で出来たからだ、という結論に達する。

 柱状節理とは、玄武岩もしくは安山岩の結晶化である。火口から流れ出た溶岩流と火道の中にある溶岩とは組成的に似たようなものだから、密疎の違いは圧や冷却速度などによって生じるはずである。あの柱状節理による安山岩層を作ったのは、男体山頂上から流れ下った溶岩流ではなく、下の観瀑台近くに地下から直接沸き上がった溶岩であった。富士山の斜面に宝永火口という側火山がある。それに類した噴火が男体山麓の大谷川直下で起こり、川をせき止め、古中禅寺湖とでも呼ぶような規模の小さな湖を作ったことがある、と私は推理する。

2017年2月25日 (土)

日本国内旅行 その12

  華厳の滝脇に柱状節理

 奥日光から路線バスで中禅寺温泉に着いたのは3時頃だった。ホテルにチェックインして、リュックなどは部屋に置き、手ぶらで町の中心部に出た。バスターミナルのすぐ近くに自然博物館があったので覗いてみた。ところが、何故中禅寺湖が出来たのか?など、当然あってもよさそうな地質学的な展示物が見当たらない。地質学は一般受けしないのかも知れない。ブラタモリのような地質学関連番組が高視聴率を得ているというのは驚きである。

 華厳の滝が中禅寺温泉バスターミナルから歩いて行ける程に近いとは意外だった。地図の上では一駅分離れている。しかし中禅寺湖の湖尻から出た川が滝になっているのだから、ちょっと考えてみれば、バスに乗る必要はないとすぐ分かるはずであった。

 観瀑台から眺めると、写真などで見慣れた華厳の滝が正面に見え感動した。ブラタモリでは、男体山からの溶岩流が川をせき止めて中禅寺湖を造り、そこから溢れた川が華厳の滝になったのだと説明していた。更にタモリ氏は、滝の中段から流れ落ちる縄のれんのような小滝群に着目した。あの辺りには軽石か何かの透水層があるに違いない、と推理してガイドに絶賛されていた。

 その観瀑台は滝の北壁から張り出している。滝を見るだけならば無料のその観瀑台で充分である。しかしせっかくそこまで行ったのだから、滝壺の高さにあるもう一つの観瀑台からも見てみたい。エレベーターで岩壁の中を降り、緩い傾斜のトンネルを更に歩いて下ると、岩壁の斜面に建てられた観瀑台がある。やはり凄い迫力だ。1cimg0669

 そしてそこで、思いがけない物を見つけて大喜びした。観瀑台から見上げる位置の岩壁は、柱状節理であった。既に何回も書いてきたように、私と柱状節理との因縁は、ヤスーン仮説を思いつく前からのものである。カリフォルニア州ヨセミテ国立公園の裏手にあるデビルズ・ポストパイル(悪魔の材木置き場)を見たことは、地質学に全く興味を持たない時代の私にとっても、衝撃的な経験であった。

 後に、中央海嶺が大陸の海岸線を反映した形をしていて、その頂上部を破砕帯という無数のひびが横切っているのは玄武岩の収縮に伴って出来たからだ、つまり、水平横向きの柱状節理が中央海嶺海底下にある、と思い付いた。それ以前に柱状節理を見た経験があったからこその思い付きであった。

 更にここ数年は、玄武洞、越前松島など、水平の柱状節理が現実にも存在すると知って、尚のことのめり込んでいる。予期していなかった日光で、柱状節理に出会えるとは。華厳の滝の辺りに、柱状節理は見えない。もしもあったとすれば、川の水は縦のひびを伝って、漏れてしまうかも知れない。滝周辺の岩壁は同じ男体山からの溶岩流で出来ているはずなのに、何故柱状節理になった部分、ならなかった部分が出来たのだろうか?

 その謎が気になっていろいろ調べているうちに、もう一つの謎を発見した。グーグルアースで見ると、タモリ氏が着目した華厳の滝中段から流れ落ちる数多くの小滝は、大きな構造のほんの一部に過ぎないと知る。岩壁は馬蹄形に凹んでいて、その途中から更に多くの小滝が流れ落ちている。観瀑台の位置からは決して見れない秘密に接し、私はすっかり興奮した。

2017年1月26日 (木)

日本国内旅行 その11

  紅葉期直前の奥日光は結構

 我々が日光へ出かけたのは、2016年10月初旬のことである。その計画を立てたのは、ブラタモリの日光編を見て、奥日光の地質に興味を持ったからでもある。計画を実行した10月初旬という時期が、かなり重要であったと後に知る。

 成田空港に着いた当日は、成田で一泊するのをここ数年の恒例にしている。そのため日光行きの計画としては、翌朝の東武線で行くのが都合いい。ところが意外なことに、観光地としての日光の知名度とは裏腹に、鬼怒川行きの急行列車の方が圧倒的に便が多い。日光へは、鬼怒川行きに乗って今治で乗り換えなくてはならない。

 私はネットで調べ、日光行き直行スペーシア号の予約を電話で取った。その前年草津温泉にバスで行った時、予約は電話かネットで入れ、支払いは成田空港のコンビニで済ませることが出来た。そのシステムが便利だったので、日光行きでも似たようなものを期待していたのだが違った。電話予約は1週間以内の条件付き、券の購入は当日、東武駅の窓口においてのみ。

 京成浅草駅から東武浅草駅への乗り換えはかなり離れていて大変なので、スカイツリー駅で乗り換えた方が良いというネット子の勧めが多かった。その上に、予約した券の購入のために窓口で列に並ばなくてはならないとすると、30分しかない乗り換え時間で間に合うだろうか?と案じた。

 実際には乗り換えに、路上を5分ぐらい歩いただけだし、窓口で列に並ぶこともなかった。むしろ順調に行き過ぎて予定前に着いてしまい、列車が入ってくるのをかなり待たなければならなかった。案ずるよりも産むが易し、である。もともと、朝9時半発の日光行き直行スペーシアは季節限定便のようで、9月下旬から始まったばかりみたいである。おかげで車内はガラガラ、快適な汽車の旅を楽しめた。

 東武日光駅に到着後、路線バスで奥日光の湯元に向かう。バスの席に落ち着いてから、そういえば朝から何も口にしていない、と気がついた。乗り換えに気をとられ、まるで忘れていた。大きなホテルのある停留所で途中下車しようかとさんざんに迷ったものの、結局終点の湯元まで降りることはなかった。温泉町ならば、土産物屋、食べ物屋が沢山あるだろうと期待した。

 ところが観光案内所で聞いたところ、そういう店屋は町中にないと言う。代わりに、1駅前のバス停近くにある湖畔のレストハウスを教えてくれた。途中にあるビジターセンターを覗いたりしながら、1駅分歩いて戻った。センターの館員によると、紅葉は始まっていたが先日の台風で散ってしまったそうである。確かに、美しい景観を観光したい人のためには時期尚早である。

 しかし、ブラタモリで取り上げられた何ヶ所かを実際に見られた私には、最高のタイミングであった。渋滞があるわけでもなく、行き帰りの路線バスにゆったりと座って景色を楽しめた。急斜面を流れ下る竜頭の滝を、途中下車してまで見に行く時間的余裕はなかったものの、帰りの車中から垣間見ることが出来た。滝のイメージを持てただけで私には十分だったし、感動もした。まさに、紅葉期直前の奥日光は結構、であった。

2016年12月26日 (月)

日本国内旅行 その10

  「熊本地震は震度7」への疑問(後編)

 熊本に震度7の地震発生というニュースを私が最初に聞いたのは、早朝5時過ぎのことだったと思う。その後も一日中、出来るだけニュースを聞くようにした。前回も書いたように、マグニチュードの割に高い震度が不思議に思えたからである。

 そして翌朝、たまたまテレビをつけたところ、新しい地震が発生したというニュースを伝えていた。臨時ニュースというような緊迫感のこもったものではなく、当直のアナウンサーが入ってきた原稿を読み上げた、という感じであった。日本時間16日午前1時25分に発生とあるので、サンフランシスコ近郊に住む私が聞いたのは、午前9時半から10時までのいつかであったはずである。

 その後のニュースで、被災地の映像が次第に増えてきた。最初のうちはまだ暗く、火事の映像などが印象的であった。やがて夜明けと共に、尋常ではない被害の様相が明らかになってきた。それなのに、震度は6強だった。16日の新しい地震はM7.3、14日のM6.5に比べて明らかにマグニチュードが大きいのに、何故震度が前より小さいのだろう、と不思議に思った。さすがにそれは、後に7に改訂されはしたが、直るのに数日かかった。

 気象庁ホームページには「かつて、震度は体感および周囲の状況から推定していましたが、平成8年(1996年)4月以降は、計測震度計により自動的に観測し速報しています」とある。本来、体感や推定よりははるかに客観的なはずの計測震度計による自動観測システムがなぜ機能しなかったのか? どうやら、地震により計測器が壊れてしまったかららしい。体感・推定ではあり得ない間違いが、なまじシステムを変更した後では容易に正せなくなる。前回取り上げたことにも関連するが、倒壊率を取るか、計器の数値を取るか、何とも悩ましい。

 計器による数値はあくまでも暫定的なのだということにし、正式な震度は、倒壊率などを考慮して後日決定する、ということにしたらいいかも知れない。それでも倒壊率は耐震構造になっているかどうかで違ってくるわけだし、難しい。

 他にも、局地的な震度が地震全体の指標として適切なのか?の問題もある。栗原市の地盤がトランポリン効果を生む特殊なものであるとは、前回も(そして、「地震は水素爆発で起こる その11」においても)書いた通りである。熊本の益城町にも、何らかの特殊性が存在する可能性がある。前回も触れたように、熊本では阿蘇のカルデラに溜まった水が地下水脈を作っている。地下のその特殊な状況が、震度を増幅する何かの作用をするのかも知れない。

 震度だけのことならば、1階級違っていたとしても、さほどに大きな問題ではない。ところがこの地震は、今迄の地震にはないいくつかの謎を持っていた。東北地方太平洋沖地震といい、鹿児島県北西部地震といい、決定的な答えを出せない特殊な地震が多い。熊本地震はそれほどに特殊ではないものの、考えていくにつれだんだん難しくなっていく。

 それなのに、既存の断層帯に起こった地震であることから、この地震を不思議と思う研究者は少ないようだ。プレートテクトニクス説、地震断層説で一応の説明がついてしまうことが、かえって研究者を謎から遠ざけているのである。

2016年11月25日 (金)

日本国内旅行 その9

 「熊本地震は震度7」への疑問 (前編)

 翌朝、鹿児島駅から宮崎、大分経由で別府に向かった。あわよくば、新燃岳の山かげぐらいどこかで見えるかも知れない、と期待して左側の席に座ったのだが、旅行中一番とも言える激しい雨が降り続いた。しかし考えようによっては幸運だった。汽車で移動中に雨、というのは決して悪くはない。越前松島で柱状節理を見ている最中とか、川内原発近くのバス停で待っている間とかの雨でなくて本当によかった。そしてそれは、翌日も続いた。別府から11:44発の九州横断特急に乗ったのだが、昨日ほどひどい降りではないものの、遠景は全く見えなかった。阿蘇駅でかなりの乗客が降りた。リュックを背負った白人女性もいた。小噴火で入山が規制されているというのに、それでも阿蘇は人気のある観光地なのだ、と思った。

 JR 熊本駅に着いた後、市内観光もせず、駅構内でトイレに行ったり、コーヒーを飲んだりしただけである。後に、ブラタモリという番組で、熊本は火の国であるよ りは水の国であると知り、興味を持った。地下水脈が上下2層になっていたりするらしい。しかもその水源は、阿蘇山カルデラの内部にあると言っていた。そうだとすると、汽車では随分離れているようにも感じたが、熊本は広域の阿蘇山域内ということなのかも知れない。

 その旅行から5か月後、熊本に震度7の地震が発生、というニュースを聞いて驚いた。M6.5と言えば、「日本国内旅行 その6その7」で扱った鹿児島県北西部地震のM6.6、M6.4と同じレベルである。それなのに震度7。阪神淡路大震災や東日本大震災並みというのが理 解し難い。益城市だけ地盤が違うのだろうか?

 2008年岩手・宮城内陸地震の時には、震源地に近い栗原市、奥州市だけ震度が突出していた。6強というからほぼ7である。この時にはギネスブックにも載る世界最大の加速度を記録した (原発問題を考える その26)。ところがその揺れの強さは、どうやらその辺り一帯の地盤の特殊性によるらしい、と後になって知った。トランポリン効果と呼ばれるような特異現象が発見されたらしい(地震は水素爆発で起こる その11)。

 その後東北地方太平洋沖地震時にも、栗原市でだけ震度7だった。そのニュースを聞いた時、やっぱりあの辺りは特殊なんだ、と思った。ところが私の調べ方がいけないのか、栗原市だけが最高震度だったことに言及する記事や論文を見たことはない。何故こんなに重要な事実がもっと大きく取り上げられないのだろうか? 栗原市の数値を地域的な例外だとして除外したとすれば、遠い首都圏や大阪までも揺らした戦後日本最大の自然災害の震度が、印象の小さなものになってしまう。それで研究者たちは、栗原市の震度をあえて問題にしようとしないのかも知れない、と思ったりした。

 最近になって、日本地震学会の広報誌「ないふる」89号に興味深い記事を見つけた。

[震度6弱というのは、木造建物の全壊が生じるレベルで、震度6強(計測震度6.0以上6.5未満)では10%以上、震度7(計測震度6.5以上)では30% 以上が全壊するのが目安となっています。ところが、震度6強以上を記録した地震計周辺で調査した約3,000棟のうち、全壊以上の被害を受けた建物は14 棟で、被害率にするとわずかに0.47%でした。10%以上という目安には程遠く、震度7を記録した地震計周辺では、全壊した建物は1棟もありませんでし た。]

2016年10月25日 (火)

日本国内旅行 その8

(再び「日本国内旅行」に戻る。2015年11月、鹿児島中央駅から一駅戻り、川内駅に降り立った後の行動である。) 

  噴火は地中にもあるはず

 川内駅に来てみれば、鹿児島県北西部地震の情報が何か得られるかも知れないという期待はさすがに漠然とし過ぎていた。断層がはっきりしている訳でも、震央の場所が特定されている訳でもない。それでは、と次善のプランに切り替えた。

 川内には再稼働したばかりの原子力発電所がある。あれを見に行こう。駅前のバスターミナルの案内板をあちこち読み比べ、原発行きの路線と時刻表を見つける。うまい具合に、次のバスまで15分もない。バス停に並んだ。

 車内の客は我々以外全てローカルの人たちであった。ストアで買った品物を、運転手さんにおすそ分けするおばあさんもいた。そろそろ黄昏時となり、左手に原発展示場の建物がぼんやりと見える。原発の敷地は右手にあるが、門があり、どうせ立ち入りできたはずもない、と帰りに知った。出来れば終点まで行き、そのまま折り返したかったのだが、終点近くのバス停で降ろされた。小さな村落の入口らしいのだが、人通りはなく、通りの遥か下方に小さく海が見えるだけ。小雨も降りそうで心細い。

 終点の車庫でたっぷり休養を取ったらしい運転手さんは、行きとは打って変ってフレンドリーだった。貸し切り状態だったこともあり、原発再稼働の日のデモの様子など、詳しく話してくれた。

 北西部地震の時はどうだったか?と私は尋ねた。丁度新幹線のトンネル工事をしていたらしい。1997年と言えば、そういう頃だったのだ。土地の人たちは、山の神が怒ったからだ、などと話し合ったらしい。よもや、新幹線のトンネル工事と地震とに因果関係があるとは考えられないが、地震後の人々の、雑談の雰囲気が伝わってくるようで興味深い。

 鹿児島中央駅のデパートで食料品を買い込んで、ホテルの部屋で食事をした。桜島が見える側の部屋を予約してあったが、階も12階で見晴らしが良かった。桜島側の部屋を予約したのは、噴火が見たかったからである。

 噴火自体は、2011年秋に桜島を訪れた際に既に見ている。宿の廊下の窓からもくもくと上がる噴煙を見て、マグマを身近に感じた。宿の好意のマイクロバスで山の中腹まで行き、対岸の鹿児島市内の夜景を見ることもでき、感動した。

 今度は市内側から、桜島噴火の夜景を見たいと思った。運が良ければ火映が見れるかも知れない。火映とは、噴煙が赤く光って見える現象である。黒々として周りの岩石と区別もつかない西之島の溶岩流が、夜間の撮影では真っ赤な溶岩流として流れ下る。火映もまた、周りが暗くなるからこそ見えるようになるのだろう。

 更に運が良ければ、火山雷が見えるかも知れない。「火山雷」で画像検索すると、美しい写真が幾らでも出てくる。桜島でも頻繁に起こるかなり一般的な現象のようである。というわけで期待していたのだが、残念ながらその夜は噴火がなかったばかりか、厚い雲に覆われていて、山影すらよく見えなかった。

 私が火映や火山雷にこだわる訳は、それらが火口部だけの現象とは思えないからである。既に繰り返し書いたように、噴火や雷は地中にもあるはずなのだ。噴火を見て、地中のマグマの動きを感じたかったのである。

2016年9月27日 (火)

選挙制度の根本的改革を その3

  何故18歳に選挙権を与えたのか?

 私は若い頃から、人が考えないようなことを考えるようにしてきた。「反票」という選挙制度も、そうしたアイデアの一つである。友人に語ったりもするのだが、反応は全くない。そうした体験の後、自分が無名である限りは、発表の方法すらないと諦めるようになっていった。

 ところが1982年以降、サンフランシスコの邦字紙に、不定期のコラムを書けるようになった。作家の石川好氏が、市井の隠れたアイデアを探す「10ドル運動」というのを始めたことがある。私はその運動を自分のコラムで扱った。丁度良い機会だと思い、自分の積年のアイデアを、その記事に忍び込ませた(日米時事1992年2月22日号)。しかし運の悪いことに、肝心な部分に誤植があり、分かり難い文章になった。そしてその時も、反応は全くになかった。

 その1年半後、徳間書店の月刊誌「サンサーラ」(1993年9月号)に岩国哲人氏の記事を発見した。小見出しに「衆議院選挙に一人五票制とマイナス票制を」とあるのが目を引いた。文中に、「仮に同じ選挙区の県民の8割が辞めてもらいたいと思っているとしても、2割が支持すれば当選してしまう」「その問題を解消するには、マイナス票を投じる権利をも有権者に与えることだ」「マイナス票が集中した候補者は、いくら2割の支持者の団結があっても当選できない」「国会議員は部分の意志ではなく、総意を反映するという点から言えば、このマイナス票を投じるという制度を導入しないと政治腐敗はなくならない」などの言葉があり、興味をそそられた。

 第1回目の冒頭に書いたように、私がこの選挙制度の問題を書いてみたくなったのは、「18歳が社会を変える? 選挙の経済学」という番組を見たからである。その番組を見て私は、いったい誰がどういう目的でこの制度を導入しようとしたのだろう?と疑問に思った。18・9歳の若者たちが、自分たちにも選挙権を与えよ!と要求したわけではない。安保闘争や全学連の時代に、彼らが選挙権を要求したとしたらどうなっていただろうか?とも思う。反抗的な若者の要求を、受け入れただろうとは思えない。そのことから逆に考えると、欲しいと望んでいたわけでもない若者に選挙権を与えるのは、彼らが従順だからだ、ということなのかも知れない。勘ぐり過ぎとも言えるが、今年の参議院選挙を照準にした上での話題作り、という可能性もなくはない。

 もしかすると、18・9歳の若者が選挙権を持ったとしても、選挙全体の傾向に何の影響も与えないとは、発案者自身、百も承知だったのではないだろうか? むしろ、既存の政治家にとって無害だからこそ、さほどの反対も受けずに法制化されたのだ。「反票」の場合は正反対であり、毒があり過ぎる。「自分の首に鈴を付けるネコ(政治家)」が果たしてどれだけいるだろうか? 今はただ、「反票」のアイデアがいつの日か実現したらいいな、という願望が、ネズミ(有権者)の間で広まることを祈るばかりである。最近は、マイナス票について話題にするネットも増えてきた。

 マスコミが18歳選挙権のような問題を扱う時、必ず用いる手法がある。「世界の先進国でこの制度を採用していないのは、日本とこれこれの小国だけだ」とか、「スエーデンの若者の投票率は80%を越える」とか、というのである。スエーデンのような高福祉国家を、国の借金が今でも際限なく膨れ上がる日本の範とすべきではない、と私は考えている。しかし日本人を納得させるには、論理ではなく、こうしたイメージ手法の方がはるかに効果があるみたいである。明治以降の欧米崇拝の流れで、北欧の国で行なわれていることならば全て間違いない、という思い込みがあるからかも知れない。

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